2020年8月に読んだ本たち+α | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

今月は結構たくさん読んだ方だと思います。

 

・村上春樹『海辺のカフカ』<上・下>(新潮社、2002年)

久しぶりの村上春樹。春先に読んだ『アフターダーク』以来か。

めちゃくちゃよかった。4日くらいでむさぼるように読了した。今も昔も春樹を読む時は文字通り寝食を忘れてとんでもなく没入してしまう。

本作がマイベスト春樹かもしれない。この表現はちょっと気持ち悪いからもう二度と使わない。

 

主人公は家出少年・田村カフカくん15歳。「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」。彼は父と二人暮らしの中野の家を出て、導かれるようにして香川に向かう。旅先にて、さくらさん、大島さん、佐伯さんといった優しい大人たちの導きを得ながら、小さな図書館の片隅で暮らし始める。奇数章では彼のビルドゥングスロマン(成長物語)が展開される。

もう一方、偶数章では猫と話せる不思議なおじさん・ナカタさんの挿話が展開される。最初の2章・4章はよくわからんドキュメントを読まされて、いつにもまして「俺は何を読まされているんだ」感が強かったが、ナカタさんが登場してからぐんと面白くなる。猫と話すほのぼのエピソードの空気感が続いてほしいと思いつつも、まあそうはいかない。突然わけのわからん<悪>が登場することによって、ナカタさんの平穏な生活ががらがらと崩れ出し、物語が動き出す。彼の物語はやがてカフカ少年の話と絡み合っていき、全体としてうねるように物語が展開されていく。

 

春樹の長編を読むときは物語の本筋よりもむしろ無数の脱線や細部の方にとんでもない快楽を味わっている。特に本作の場合はカフカくんや大島さんがたいへんな読書家であることもあって他作品や作家への言及が多い。カフカ、漱石、イェイツ、『源氏物語』など。

 

大島さんが語る「僕らの責任は想像力の中から始まる」"In dreams begin the responsibilities"という言葉(第15章)は、アイルランドの詩人イェイツの『責任』("Responsibilities" 1914)という詩集のエピグラフだと思われるのだが、今手許にイェイツ作品集がないので確かではない(余談だが、日本語のGoogleで調べるとイェイツよりも『カフカ』が出てくる)。大島さんはこれをアドルフ・アイヒマンと関連させる。ユダヤ人虐殺をシステマティックに遂行したアイヒマンは、自分が今何をやっているのかへの想像力が致命的に欠落していた。ただ一官僚として与えられた仕事を最大限の効率で遂行していただけじゃないか、とアイヒマンはそうとしか考えられないので、「人道に対する罪」への責任を感じることはない。『アフターダーク』では「とんでもなく悪いことをやったヤツがどうにも悪人に見えない」という記述があり、そこでも「陳腐なる悪」(ハンナ・アーレント)のことを言っていると言及したが、本作ではもっと直接的に言及がなされていた。

アイヒマン裁判の教訓は「陳腐なる悪」という観点でも衝撃的だと思うのだが、じゃあ自分のやることについて、権威に盲従するのではなく、常に思考停止しないようにします、みたいな(それこそ陳腐な)教訓に留めておくだけでは物足りないと感じている。退屈な道徳の授業ではないのだから。それよりも、本作でなされていたような「他者への想像力の欠落」というテーマを取り出して思考する方がより面白みがあると考える。これは「フェミニスト」たちと大島さんのバトル(第19章)にも通じる。自分と同じ属性を持つ人たち以外への想像力が足りていない点においては、アイヒマンも(本作で登場する)「フェミニスト」も一緒ではないか、と大島さんは思っていることだろう。

 

春樹の長編は無数の脱線が面白いのであって本筋はあまり重要ではないとも思っている節があるのだが、本作は本筋もなんだかすごくよかった。カフカ少年は「父を殺し、母を犯し、姉をも犯す」という呪いの予言を抱えている。この予言の出所は『オイディプス』なわけだが、丁寧にロジックを積み上げてこの呪いの予言を再現してみせるところはすごく痺れるものを感じたし、作家の手腕にすごいなと思ってしまった。この予言の場面はお馴染み・いつもの濡れ場だが、本作のは「いやいや官能小説やんけ」とか「いやいやエロゲーやんけ」と一蹴させない緻密さを感じさせる。いや、多分エロゲーっぽいんだろうけど、さすがに15歳の少年とかーちゃんの濡れ場は描かないでしょう。

 

この恐るべき呪いの予言は残念ながら完遂されてしまうのだが、カフカ少年はまだ未来がある。この経験を経て、これからどうする?というのがなんとなく示唆されるラストは明るくていい。なにせ彼はまだ15歳なのだ。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、選択の余地がなく受け入れざるをえなかった「私」と、責任を果たすといって自らの世界に留まるという(柄谷行人が「いや無責任でしょ」とボロクソに酷評した、俺もそう思う)選択をした「僕」の二人の結末の在り様に、些かながらも不満を感じていたのだが、『海辺のカフカ』によってこの不満が綺麗に昇華していってくれた感じがある。また、『1Q84』「Book3」における、長い長い読書を経たうえでの安直な合体シーンの結末に涙が出そうになった感覚も、消えて行ってくれた感じがある。

 

やはり成長物語が好きだ。本作はカフカ少年の成長だけでなく、ナカタさんとの物語にて重要な役割を果たすホシノ青年の成長物語でもある。ひょんなことからナカタさんの珍道中に巻きこまれたホシノ青年は、ヤンキー上がりのトラックドライバーであったところから啓蒙されていく。ベートーヴェンの「大公トリオ」を「いい音楽だなあ」と感じるようになり、フランソワ・トリュフォーの映画を観て「この監督の別の作品を観てもいいかもな」と感じるようになる。いわばホシノ青年がどんどんハルキストみたいになっていくのがちょっと可笑しいのだが、「俺はナカタさんと出会ってから自分がすっかり変わっちまったように感じるんだ。おじさんと出会ったことは俺の人生の中で最も実りがあることなんだ」と素直に告白している場面(第44章)は、もうベッタベタな場面なんだけどとんでもなく泣きそうになってしまった。

 

そう、本作は成長物語だから、キャラクターの台詞が飾りなく率直なのがいい。「僕には生きるということの意味がよくわからないんだ」(第47章)と告げるカフカ少年。カフカ少年よりはいくらか歳をとっているけど、俺も同じでよくわからない。よくわからないんだ。

 

長々とだらだらと書いてきたが、とにかくよかった。俺は『カフカ』はとてもいい小説だと思う。春樹ビギナーは『カフカ』から読んでくれ。

あー、でもやっぱりコンパクトだしわかりやすい『多崎つくる』からかな。

 

・矢沢久雄『コンピュータはなぜ動くのか──知っておきたいハードウエア&ソフトウエアの基礎知識』(日経BP社、2003年。)

「基礎知識」らしいが、正直言って全然よくわかっていない。咀嚼できていない。助けてほしい。

もしも、手作業の業務でまったく "ITできていない" 顧客が「コンピュータを導入すれば自然と "ITできる"」と信じていたらどうしましょう。SEは、コンピュータが何でも解決できる夢の機械でないことを顧客に説明することになります。(265)

この記述がめちゃくちゃよかった。ここだけでも本書を読む意義がある。今のトレンドを鑑みるのであれば、ここに「IT」ではなく「AI」を代入してもいい。

やはり専門技術は勉強しないといけないというのが改めてよくわかった。何回も読み返します。

 

・石田英敬『記号論講義──日常生活批判のためのレッスン』(筑摩書房、2020年。)

最近出たばかりの本。東京大学での記号論の講義をもとにした書籍。

めちゃくちゃよかった。すごく啓蒙された。新たな知識の獲得もできたほか、なんとなく知っていたこと・聞いたことがあることをより体系的に理解できたというのが大きい。色々な本へ挑戦できそうな武器を手に入れられた実感があるし、何か記号論的な分析を行うときに参考としてあげることもあるのではないかと思う。

 

言語論的転回と名指される現代思想の基礎は、実体論から関係論への移行、および言語を中心としてなされる人間の認識機能への注目と概括できる。世界に「米」がまずあって、それを名指す「米」という言葉が二次的に生み出されたのではなく、人間が「米」と認識して名指すことによって「米」が出現する。「米」と "rice" の間にある意味の切り分け方の違い(「稲」「米」「ごはん」は全て "rice" で表現できる)は、実体論ではなく関係論として捉えたときに説明がすっと通る。それぞれの様態にいちいち名前をつけているのではなく、名前の区別が予めきっちりつけられていることによって、我々日本語話者は「米」の各様態の違いを認識するのである。世界やモノと言語の順番関係を転倒させ、言葉が先で、世界やモノが後とした考え方は、簡単にまとめるとこういうことと理解している。

 

本書はソシュール、パースの記号論の基礎的説明をきちんと行ってから、メディア、広告、都市、コミュニケーション、政治、ヴァーチャルなどかなり広範囲にわたって、日常生活をとりまく記号の働きについて考察を展開する。とりわけ、種々のレッスンを積み重ねた最後に展開される11講「ヴァーチャルについてのレッスン」がとんでもなく刺激的で面白い。

 

私たちは、サイバースペースの出現とともに、<ポスト・ヒューマン(人間以後)の問い>を前にしていると言えるのです。ポスト・ヒューマンの問いとは、<人間>という形象において統合されていた、世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が、もはや<人間>という統一体を経由しなくてなっているのではないかというものです。私たちが目の当たりにしているのは、間違いなく人類がかつて経験したことのない意味環境の変化です。<人間>という世界の経験の統合形式が終わり、人間が働きかける経験の領域であった自然、経験の源としての生命が、プログラムに書き換えられる。事物や現象は次々とヴァーチャルな計算論的空間の中に転位され、人間のアヴァター化が進み、人々が脳の中での生活を始める。事物についてのアナログ的な認識を担う意識論的主体としての<人間>は、いままさに、デジタルな記号列を演算処理する計算論的主体である<ポスト人間>に席を譲ろうとしているのだとも言えます(537-38)

 

この本のもととなっている『記号の知/メディアの知──日常生活批判のためのレッスン』の刊行は2003年なので、この記述は2000年代冒頭になされたものであり現在は20年ほどが経っているわけだが、いまの私たちの生活環境はどうだろうか。あらゆるモノがインターネットにつながるIoT(Internet of things)は、私たちの行動特性や趣味・趣向を瞬時にデータへと換算し、サイバースペースに書き込み、リアルへと移し返す。自分でカスタマイズするでもなく「お好きなパンの焼き具合」を勝手にトースターが判断してくれて、寸分の違いもなくいつもその焼き具合でトーストしてくれる世界はディストピアじゃないですか?と思うのだが、どうですか。今はAIが膨大なデータを勝手に解析してくれていいようにやってくれる時代なので、「事物や現象は次々とヴァーチャルな計算論的空間の中に転位され」る世界に、もうなっているのだ。この事態に対して「ハイテクですねえ、便利ですねえ」とだけ脊髄反射的に反応するのではなく、それがもたらす功罪の両面について抽象的に思考を働かせることが必要だと思っているので、仕事で必要となるIT知識の習得と合わせて俺は勝手にやっているわけである。

 

記号論はかなり射程の広いものであり、20世紀後半に人文・社会科学のマップをがーっと書き換えるだけのポテンシャルとインパクトがあったことはよくわかったのだが、じゃあ全部が全部記号論的な方法で説明できるのかというと、どうなんだろうという感想を持った。過度に抽象化しすぎてその学問内で自己満足的に自己完結してないか?と素朴に感じる部分もある(チョムスキーの生成文法に端を発する統語論をわからんわからんと泣きながら勉強していたときにもまさにこれを感じた。人間が言語を扱っている時に本当にそんな複雑なメカニズムが働いているか?と)。第5章「<ここ>についてのレッスン」での建築、第6章「都市についてのレッスン」での都市の説明がかなりよくわかっていない。だが、これは「人間の空間認識においてもどのように記号論的な意味作用が働いているか」という説明に対して、自分の実感的・直観的な認識がいかに強いかという問題なような気もする。街歩きを趣味とする友人にこの章を読んでもらったら「都市は一個の言説(ディスクール)である」というバルトの主張にも手掛かりを与えてくれるかもしれない。

 

・ロラン・バルト『明るい部屋──写真についての覚書』(原著:1980年。花輪光訳、みすず書房、1985年。)

今月は所用があってバルトを乱読していた。『エクリチュールの零度』『物語の構造分析』『エッセ・クリティック』そして『明るい部屋』。他3つは興味のあるところをつまんで読んでいただけだが、本書は通読した。あまり咀嚼できていないが、なんかぼんやりとよかった。

 

本書においてバルトは、写真の本質とは《それはかつてあった》性だと言う。絵画と違い、写真は「写っている事物」が「かつてカメラの前に置かれていた」という事象を否定することはできない。ここにおいて、写真に写っているものは「現実のもの」であり、かつ「過去のものである」という二重の措定があることになる。あらゆる写真がこれら制約を破ることはできないし、写真のみがこれら制約を受けるメディアであるために、これこそ写真の本質と見なさなければならない。

 

本書は二部構成になっているのだが、第一部で色々な写真を採り上げてあーでもないこーでもないと言っているところは、正直何が言いたいのかよくわからない。対照的に、第二部で母の若かりし頃の写真を採り上げてから語りだすところから急に言っていることがはっきりしてくるし途端に面白くなってくる。母の死後に写真を整理していたら母の少女時代の写真が出てきて、自分が実際には見たことのない母の姿を写真に認めたときの衝撃はまあ大きかっただろうなというのは想像がつく。本書が写真論としてどれくらいの有効性があるのかという問題は専門外なのでよくわからないが、客観的な写真論を構築しようとするところよりも、バルトが「写真論」と題してすごく個人的な話をしており、母の死の喪に服しているところを精緻なタッチで文章に落とし込んでいるところが興味深かった。ちょっとバルトに親近感を覚えられた感じがしている。

 

・ミヒャエル・エンデ『モモ』(原著:1973年。大島かおり訳、岩波書店、2005年。Kindle版。)

『カードキャプターさくら「クリアカード編」』の第8巻において、幼き頃の秋穂が読んでいた本として言及がされるので読まなければならなかった本。ようやく読了した。4か月くらいかかった。

 

この本、児童文学の顔をしていてその実体はディストピア小説だった。「時間どろぼう」によって各自の時間が盗まれている社会って管理社会やんけ。なので、読んでいて苦しかったためにやたら時間がかかった。印象としてはオーウェルを読んでいたときと一緒だった。

 

本作の意義は、消費資本主義がもたらす「幸福」は「幸福」じゃないぞと、1973年の時点で暴き出して見せたところにある。あらゆるものが消費の対象となる(物語でさえも!)高度資本主義社会がもたらす、物質的な豊かさに対する精神的な貧しさと空しさを、「時間」というテーマから解き明かしてみせる。「家事にかかる時間を節約して有意義に時間を使おう!」と謳うドラム式洗濯機、自動調理家電、ロボット型掃除機などに一抹の胡散臭さを感じているのだが、もう40年以上前にエンデがこれらを「時間どろぼう」として表象してくれていた。ありがとうございます。

 

決してつまらなくはなかったが、楽しい読書ではなかったし、もうちょい「時間」について新しい見立てが与えられるかなと期待しすぎていた感はある。本作における時間の二つの見立て──貨幣をメタファーとして貯蓄/節約できるものとみなす時間の在り方と、各自固有のものを持っているとされる<時間の花>と──に、正直新しいものはなかったし、カシオペイアを携えたモモが強すぎるという点でのご都合主義っぽさは否めない。ただ、児童文学にしてはあまりにも寓話的すぎる社会批評になっていたり、ベッポが精神病院に入れられる件や<子どもの家>の件はおいおいフーコーか?というところであったりと、なんか「児童文学」とは馬鹿にできない一筋縄ではいかない作品であったというのも事実としてある。まあだからこそ読み継がれている作品なのだろう。偶然にも8月の「100分de名著」で特集されていたらしいが、今後本格的に「クリアカード編」に取り組むときに合わせて参照するかもしれない。モモが灰色の男たちに立ち向かおうと決心する場面はプリキュアっぽかったし、よかったです。それにしても、そういう場面が取り立てて描かれるのはどうして<少年>じゃなくて<少女>なんでしょうね。

 

+α

・先月から続いていたジブリ映画再上映スタンプラリー、今月『千と千尋の神隠し』と『ゲド戦記』を鑑賞したため、無事に完遂しました。

たいへんよかったです。やはり映画は映画館で観るべきなのだなあというごくごく当たり前な感慨を十分に再確認しました。前言した通りに四作まとめて頑張って記事にしたいのですが、語り切れるかどうか……。

自分は映画通を名乗れるほど映画館に熱心に通っているタイプではないのですが、今年はジブリ再上映と『レヴュースタァライト』、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』の新作、そして待ちに待ったプリキュアの「春」映画と、これからも週末は映画館に行くことがデフォルトとなる気がしています。

 

・先期のアニメ『かくしごと』を8月初旬にばーっと観ました。すごくすごくよかったです。本ブログで扱っている「日常系」アニメの問題系に対してあまりにもクリティカルな作品だったので論じなければと思っているところなのですが、1か月経ってしまいました。こちらも頑張りたいところですが、時間がきついのも然ることながら、どうにも執筆のエネルギーが無くなってきているんだよな……。労働は悲しい。