2023年7月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

暑すぎ!!

 

・味形修『第2版 子供とともに歩む生徒指導』(明星大学出版部、2020年。)

正真正銘、教免のために読んだ本その1。まあ勉強という感じの書籍だが、時おり「てにをは」や主格の対応がおかしいのが気になった。

 

1つよかったことを挙げると、柳田国男が掲げていたという「二・五人称の視点」が印象に残った。もとはターミナルケアに関する医療関係の用語で、科学的・客観的な判断と行為ができると同時に、苦悩する患者・家族に寄り添うことを大事にする医療従事者の接し方のことを言う(35)。教員の生徒指導の態度も同様に、児童生徒に対して中立的・客観的な距離を保ちつつ、子どもたちの視点に立ち寄り添う態度も共存させることが重要だと言う。その通りだよなあ。

 

・西本絹子『教師のための教育相談──日常から子どもに向き合うインクルーシブな発達支援』(萌文書林、2018年。)

同じく教免のために読んだ本その2。こちらは語り口が優しく穏やかな一方で実例が豊富に載っており、具体的なイメージが湧くようでよかった。

 

・ウィリアム・エンプソン『牧歌の諸変奏』(柴田稔彦訳、研究社出版、1982年。)

先月の『アリス』紹介で言及したエンプソンの著作を早速図書館で取り寄せ読んでみたが、まあ読めない。この時代の英文学者は博覧強記すぎて、マジで何の話しているかすぐよくわからなくなるし、作品は読めてもこういうのが読めなかったから研究者にならなくてよかったんだよな、とか改めて思ってしまった。

 

 

まあでもいくつかわかったつもりになっていることをつらつらと書く。エンプソンが考える牧歌の原型とは「単純な人々に、強い感情を、教養のある上流の言葉で、表現させること」であり、これを「富めるものと貧しいものとの美しい関係を内包しているように感じられた昔の<牧歌>の肝要な仕組み」とも言っている(11)。僕はこの発想法をマジでイギリス~~と思っており、文学的伝統と階級意識が美しく手を取り合っている様子を何年も見てきたな、という感じである。

 

 

『アリス』批評については、当初のイメージとは裏腹に「『アリス』の物語は正々堂々と成長について語ったものであるから、それをフロイト的な用語に翻訳してみても大した発見にはなりはしない」(287)と言っていて、ああそうなのかとなった。一方で、大きくなったアリスが泣いて作った涙の池から出てくる場面について、これは生命が生ずる海であり、羊水でもあるし、それから多様な生き物がアリスと一緒に海から上がるところは『種の起源』(1859年、『アリス』が出版されるのは1865年)の影響だよね~みたいなすごく重要そうな指摘を矢継ぎ早にしている。そして何十ページにもわたって四方八方に批評の手が伸びている。「小見出しつけて整理してくれよ」と僕は思うし、この時代の巨匠にしか許されない著作スタイルだよなともなるわけだが、さすがにすごかったです。『不思議の国のアリス』の物語の筋そのものが、人間の出産になぞらえることができるよね、という話が僕にとっては最も大事だった。『アリス』研究を本気でやろうとしたらエンプソンから始まるんだろうな(というか僕がLiterature Reviewを書くなら多分そう設定する)というところで、今回でいったんファーストタッチができてよかったです。

 

・CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編』(14)

 

CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編』14巻表紙。(C)CLAMP・ShigatsuTsuitachi CO.,LTD./講談社

 

というわけで「クリアカード編」の第14巻なのだが、正直僕の中で大分怪しいコンテンツとなっていることを今回の巻数で自覚してしまった。というのも、14巻で完結すると大々的に謳っていたのに結局15巻で終わるんだよな、と思って今調べたら16巻で完結すると再度変更になったらしく、「やっぱり話の適切な畳み方を見つけられていないんだな」となってしまった。

 

 

「クリアカード編」は全部完結してからもう1回大々的に再検討をしようと思いつつも、なんかこう上手くいっていない感じがするのは「枠」を作れなかったことにあるんだろうなと思っている。「クロウカード編」「さくらカード編」がそれぞれ6巻+6巻の12巻で綺麗に収まっていることを僕は高く評価しているので、「クリアカード編」はどこに着地させればいいのかよくわからなくなってしまったんだろうなあと推察する。「クリアカード編」はそれまでとは違い、カードの枚数が無限(さくらの思いが何でもかんでもカードになってしまうので)なのが、厳しくなってしまった根本原因なのではないかと思っている。というか『さくら』の良さであったところの、知世ちゃんの可愛いコスプレをまとった魔法バトルも長いことしてないよな……。

 

 

14巻の結末、ようやく生み出された「交換」のカードによってさくらと秋穂の関係性が書き替えられ、過去改変みたいな話になってしまったのは僕的にはかなりよろしくなくて、せめていい着地にしてほしいんだよな~~という思いがある(さくらの母親と秋穂の母親のエピソードとかあったじゃん……)。まあでも「アリス」の劇中劇をやり始めて以降、もう何が虚構で何が真実なのかがよくわからなくなっている(読者も作品内のキャラクターも、そして恐らく作者も)おり、この世界でこの物語を適切に追いつけている人いるのか?という感じである。

 

<映画のこと+α>

 

・『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(『ゆめみる少女』『ハツコイ少女』)

(C)2019 鴨志田 一/KADOKAWA/青ブタ Project

 

当月のハイライト。『おでかけシスター』の公開にあわせ、4年振りに『青ブタ』にどっぷりと浸った1か月だった。

当時観れていなかった『ゆめみる少女』が久しぶりの『青ブタ』となったのだが、こんなとんでもないテンポ感で進むアニメだったっけ?と大変な思いをした。だが、アニメの最後の方を見返したり、原作を読んだりをしたことによって、『ゆめみる少女』が90分間を爆速で駆け回る構成にせざるを得なかったことは理解できた。

 

 

原作の話をしておくと、「おるすばん妹」「ゆめみる少女」「ハツコイ少女」「おでかけシスター」の4巻は話が続いており、かえで+花楓の挿話と翔子の挿話が複雑に絡んで展開されている。だから、アニメ版の最終話が「いや全然話畳めていないんですけど」と思った僕の印象は正しかった。話としてはアニメ版の最終話では全く終わっておらず、とりあえず区切りをつけるためにはああするしかなかったということは理解した。咲太が金沢に押しかけて麻衣の誕生日を祝う、という挿話が「ゆめみる少女」の中の最初のハイライトとしてあることは、翔子編全編に渡って「麻衣か翔子か?」という挿話をやっていくにあたっては結構重要だということを理解した。

 


僕は『青ブタ』というコンテンツが結構好きなのだが、「ゆめみる少女」と「ハツコイ少女」の挿話がシリーズ全体の中で一番好きだし、多分この先もそうなんだろうなという思いがある。本作を一言で要約すると、自分の窮地を救ってくれた初恋の人を選ぶのか、それとも今愛している恋人を選ぶのか、という挿話で、それを「複数いる自分」「心臓病」「臓器移植」「タイムリープ」などのトピックを使うことで非常に上手に展開している。キャラクターたちの思惑が錯綜することにより、誰が生きて誰が死ぬのか最後までわからないという展開はサスペンスとしてもよく出来ているし、生きていたいと思いながら生きることに葛藤するキャラクターたちの様子には、結構込み上げてくるものがあった。

 

 

まあでも原作2巻分で展開されているこの複雑な挿話を90分のアニメ映画に落とし込むのはだいぶ厳しくて、物語を追いかけるだけで精一杯になってしまっているところが非常に惜しい。

 

何度もここで書いてきた通り、僕はもともと詩をやっていた人なので、内容そのものよりも形式の方を大事にしているし、形式のことを考えてしまう癖がついている。だから、「ゆめみる少女」「ハツコイ少女」に取り組む中でもその問題のことを考えており、この物語をやるにあたって最もふさわしい形式は「アドベンチャーゲーム」だったんだろうなという結論が出ている。

 

今まで自分の人生の中で最もちゃんとやった美少女ゲームは『はつゆきさくら』(しかもR18)1作しかないので、そんな奴が偉そうに語るなよ、と思われるだろうが、僕はこの物語を何十時間もかけてプレイするゲームの形式で体験していたら、間違いなく人生に刻まれていただろうなと思う。

 

プレイヤーが咲太に憑依して、自分の命を犠牲にして翔子を助けるのか(この選択は結果的に麻衣が死んで翔子と共に生きる結末になる)、それとも麻衣と共に生きる未来を選ぶのか(未来の翔子はいなくなるが、この選択自体は未来の翔子の願いでもある)を、プレイヤー自身の選択として選ばせ、そしてその責任を引き受けさせるのだ。アニメ映画ないしラノベの形式では、読者はキャラクターと距離を置いて、あくまで他人事としてこの物語を受けとめることができるが、やっぱりこの物語のキモは「誰と一緒に生きる未来を選ぶのか?(あるいは愛する人のためなら自分はいま死んでもいいのか?)」というところにあり、それを自分ごととして引き受けさせることができたのならそれが一番よかったんじゃないかと思っている。もしそれがあったとしたら、僕は死ぬほど泣いて翔子ルートを選んでいます。

 

 

というわけで、「ゆめみる少女」「ハツコイ少女」の挿話は、『青ブタ』シリーズの最初から周到に準備されていた伏線が回収される重要な話であったこともあり、とりわけ気合いが入っているし非常に優れている。最終的には咲太、麻衣、翔子のみんなが幸せに生きていけるような結末に着地しているところは、「まあしょうがないよな」と思いつつも、本作の本質はそこではない。キャラクターたちそれぞれが、愛する人たちを強く気遣うあまりに葛藤し、自由意志が錯綜して思いもよらない未来が選択されるところがいい。本作の内容を整理すると、翔子ちゃんを助けるためには自分を犠牲にしてもいいと願った結果、麻衣さんが犠牲になり、麻衣さんの心臓が移植された翔子さんと結婚するルートが本来正規ルートとしてありました、という話で、これはかなりヤバいよなと思いつつ、よくそんな展開が思いつくなとつくづく感心してしまう。ちなみに、咲太くんには申し訳ないが、僕は麻衣さんがなんでそんなにいいのか全く共感できていない(翔子さん一択だろと思っている)ので、梓川翔子ルートが一番ええやろと思ってしまっているところに、自分の暴力性をまざまざと鏡写しされてしまっている感もあり。それでも、「恋人の心臓を受け継くことによって生き延びた初恋の人と共に生きることは、幸せなことだと本当に思えるのだろうか?」を筆頭に、たくさん思うところがあって本当に素晴らしかったです。

 

・『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』(『おでかけシスター』)

 

(C)2022 鴨志田 一/KADOKAWA/青ブタ Project

 

引き続き『おでかけシスター』の感想なのだが、前段の『ゆめみる少女』に鑑みてあまりに真っ当な挿話となっているので特段のコメントがない。普通に完成度が高くてよかったのは間違いないんですけれども。

 

本挿話は「いじめられたトラウマをきっかけに解離性障害を患い、「花楓」と「かえで」という二つの人格を生きてきた少女が、高校受験というイベントを通して、もう一つの人格を統合したうえで自分自身の意志や道を見つけていく話」と一言でまとめることができ、その物語の運びは非常に倫理的かつ順当で、「絶対そういう話になるよね」と思いながら納得して受け止めた。
 

 

映画に関して言うと、『ゆめみる少女』がラノベ2巻分を90分の枠に収めるべく、超爆速ジェットコースターみたいなスピード感で突き進んでいたのに対し、『おでかけシスター』はかなりスローペースで進んでいくのに面食らい、「いつ話が展開していくんだろう」としばらく不安になっていたのは否めない。30分すぎたあたりで「ああこれはこういうペースでやっていっても尺的に大丈夫な話なんだろう」と理解し、物語のテンポに適切にチューニングしたうえでゆったりとした気持ちで鑑賞することができた。まあそれでもクライマックスにやってくる海辺の会話シーンは本当に会話しかなかったので、さすがに退屈すぎに感じてしまった。

 

 

もう一つだけ言うと、僕はライトノベルのハーレム系やれやれ主人公の系譜がマジで嫌いなのだが、咲太くんは結構好きだなというのを本作で改めて実感した。咲太はアニメ版最終話の「かえで」と唐突に別れてしまったために本気で慟哭している姿がかなり印象的だったのだが、やっぱりいいヤツだよなと好意的に受け止められている。本作でも、『かえで』も『花楓』もどっちも普通だ、というお兄ちゃんとしての台詞がめちゃくちゃよい。「どっちが好きとか、そんなのあるわけないだろ」「どっちも普通だ」「ふたりとも妹だから、ふたりとも普通なんだよ。妹のこと好きとか言ってたら、色々まずいだろ」(248)という台詞、どうして彼はいつも適切な言葉を大切な人たちに伝えることができるのだろう、と羨ましくなる。