2023年8月、9月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

今年の夏は、新潟に行ったり、マレーシアに行ったりなど。

 

・多和田葉子『太陽諸島』(講談社、2022年。)

故郷と言語を巡る「サーガ」3部作の最終巻。思えば本シリーズは多和田葉子を初めてきちんと読んだきっかけになった一冊で、2018年から5年間にかけてじっくりと取り組んできた。本作も8月から10月にかけてかなりしっかりと向き合った。

 

 

どうやら消えてしまったらしい日本を探すHiruko一行の旅は、船に乗ってバルト海を東に目指す。最終章でロシア・サンクトペテルブルクに到着すると、当初の旅の目的はあっさりと変更されることとなる。

 

「『家とイイエは発音が同じ』……

『消えた家、探すのやめる、私が家』……

『家になる、わたし自身が、家になる』……

『狭い家、海に浮かべば、ひろびろと』」(310-11)

家族から「No」と言い続けられてきたHirukoは、自分自身が「家」になることを決断する。「いいえ」と「家」は発音が同じだ。

この「Noと~~は発音が同じなんだよ」というのは『パウル・ツェランと中国の天使』のクライマックスにも出てきた一節で、やはりここがキモなんだろうなと感じずにはいられない。

 

 

一方で、同じ日本人であるSusanooも、自身の来歴をアップデートする。

「『夜を司るなんて素敵。夜は、夢や恋愛の時間でしょう。海も素敵。』……

『海を統治しろと言われたということは、政治家としての才能を見込まれている証拠よ。』……

『だって、それは外務大臣と環境大臣を兼ねるみたいなものでしょう。』」(293)

記紀において、スサノオは夜の国、または海原を治めるように命じられる。スサノオはこれをずっと不服に思っていたが、重要な領域を統治するよう命じられており、それは親の愛情の表れだったのだと認識を改める。

 

本作は多和田葉子による日本神話の書き直し、あるいは現代的なアップデートなのだ。HirukoとSusanooは、仲間たちとの出会いを通して、それまで神話で規定されていた自身の在り方を改め新しい生へと自身を開いていく。

 

 

多和田葉子を読んでいるときにいつも書いているが、小説に触れる度にこの世界の言語の多様性に素朴に驚きを感じてしまう。

本作でも日本語しか出てこないが、日本語の文体の違いによってたくさんの言語が表現されている。それに伴って、翻訳による軽やかな移動と永遠の保存(日本は消えたらしいが、MUJIやユニクロは残っているように)の可能性が提示される。このことと似て非なることとして、「コピー」が挙げられる。その象徴がスターリンからプレゼントされた一連の建物群だ。

 

「『ここはリガで、あれはラトビア科学アカデミーですよ。でも建物自体は、モスクワのロモノーソフ大学のコピーなんです』」と言ってニヤリと笑った。Hirukoがかすかに首を傾げると、青年は次のように説明してくれた。

『この建物はスターリンからのプレゼントです。僕の故郷のワルシャワにもそっくりなのが一つ建っています。子供の頃はモスクワ、ワルシャワ、リガの三人姉妹なのだと聞いていました。三人姉妹なんて、まるでチェーホフのお芝居みたいでオカシイでしょう。でも、それが違うんです。モスクワだけでも似たような建物が七つも建っていて、七人姉妹と呼ばれていることを後から知りました。……美人姉妹がモスクワだけにいるのではもったいない、まわりの国々にもそのコピーをプレゼントしよう、と気前のいいロシアの独裁者は考えたのでしょう。ワルシャワに八人目の娘を建てました。いらない、と言われたのに無理にプレゼントしたそうです。そして九人目の娘が僕らの目の前にあるラトビア科学アカデミー。十人目がブカレスト、十一人目がプラハ。』(227)

 

このことについて軽く調べてみると、モスクワ大学、ラトビア科学アカデミー、そしてワルシャワの文化科学宮殿が確かに似通った建物であることがわかった。

 

↑ロシア・モスクワ大学

 

 

↑ラトビア科学アカデミー

 

 

また、英語版Wikipediaには七姉妹についてのページもあった。

 

 

建物自体に罪はないが、なんだかそこはかとない趣味の悪さを僕は感じてしまった。ソビエトの歴史的名残りがこういうところにも表れているんだな、と学びになる。

 

「『リガで僕らはアカデミーの建物を見たんですが、それがモスクワ大学のコピーなんだそうです。コピーしたくてしたのではなく、自分のコピーを人にプレゼントしまくった独裁者がいたそうです。でも今のお話を聞いているうちにこんなことも考えてしまいました。コピーを残しておこうとするのは、自分がいつか消えることをひどく恐れているからではないか、と。それと比べると、何も恐れていないように見えるオキチさんの運命の旅はダイナミックですね。芸者から外交官へ、犯罪者から英雄へ、英雄から野宿者へ。母語の言葉に留まっていないで、英語からドイツ語へ、ドイツ語からフィンランド語へ、フィンランド語からまたドイツ語へとオキチさんの物語は先へ進んだり、元へ戻ったりしてルーピングを繰り返しながら、これからも旅を続けていくんですね』」(256-57)

 

この一節が本作の結論なのでは、と僕は読む。ここでは「コピー」と「翻訳」が対比され、一見似ているけれども全然違う行為であることが示される。コピーは消えることを恐れる気持ちの表れだが、翻訳は軽やかに領域を越えながら、永遠の旅を続けていく。

 

・小西甚一『日本文学史』(講談社、1993年。)

教免のために読んだ本枠だが、そもそものところで国文学史に関心があるのでかなりよかった。さすがに読み継がれる名著という感じである。

 

 

序説に出てくる下記の文章がなんだかすごくよかった。

「わたくしどもは、永遠なるものに憧れずにはいられない。それは、わたくしどもの日常心においては、あまり無いことであるが、日常心の底には、日常的でない何ものかが、深淵のようにわだかまっており、日常心がそれに行きあたるとき、日常性がどこかで綻びて、永遠の光が、きらりとさしてくる。そういう意味で、わたくしどもは、永遠なるものに連なっているわけだが、わたくしども自身は、けっして永遠でない。わたくしどもが永遠でないことを自覚するとき、永遠なるものへの憧れは、いよいよ深まるであろう。しかし、憧れは、どこまでも憧れであって、永遠なるものへの憧れは、畢竟、永遠なる憧れであるよりほかない。そうした憧れが、具体的には、宗教とか、藝術とか、科学とかの形において表現される。あるいは、宗教や藝術や科学などを媒介として、私どもが永遠なるものに連なりうるのだといってもよかろう。」(15-16)

日常心の奥深くにある「日常的でない何ものか」に触れるとき、永遠の光が差し込んでくる。宗教や藝術や科学といった一個人の生を越えて普遍的に受け継がれていく形式たちは、我々の永遠なるものに対する憧れの投影であり、同時に永遠へとアクセスするための手段でもある。ここ最近は日常系作品についてあまり批評的なことは考えていなかったけれども、思わぬところで日常系への示唆を与えられたような気がする。

 

・ファリダ・モハメッド、近藤由美『ニューエクスプレス+ マレー語』(白水社、2019年。)

マレーシアがどういう国かわからず、なんだかめちゃくちゃ不安だったから直前に慌てて買った一冊。結果的に杞憂だった。

マレー語は時間帯によって変わる「こんにちは」2種(「Selamat pagi.」「Selamat petang.」)と「ありがとう」(「Terima kasih.」)しか結局覚えられなかったが、これらを覚えただけでも結構よくて、お客さんとの最初の自己紹介で挨拶したときに和やかな空気が流れた。午後についた空港のイミグレーションで間違って「Selamat pagi.」と言ったら、「今の時間帯は「Selamat petang.」だ」と言われたのもよかった。

 

・谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(KADOKAWA、2003年。)

 

『涼宮ハルヒの憂鬱』表紙(C)谷川流・いとうのいぢ/SOS団

 

マレーシア出張のお供に読んだ一冊。今さらの『ハルヒ』であるが、さすがに読み継がれ語り継がれる影響力のある作品ということがよくわかった。なんというか、すごくよくまとまっている。魅力的なキャラクターが縦横無尽に動き回り、破天荒な設定をよく把握させたうえで、クライマックスの展開についてはなぜそうなったかの説明は野暮だからしない。まあ恋なら仕方ないよねーというところで、そこのフォーマットの落とし込み方とバランスの付け方が天才的だと感じた。

 

 

たまに話に出す、中学からの親友でかつては村上春樹を研究し、今はゲームプランナーをやっている友人が、「本作は『キャッッチャー・イン・ザ・ライ』につながるところがある」と言っていて、非常になるほどと思った。とてつもない特殊能力を持っており、その気になれば世界を破滅させることも可能な涼宮ハルヒも、語り手であるキョンくんの世界の中でしか生きられない。

 

・田中靖規『サマータイムレンダ』

『サマータイムレンダ』1巻表紙。(C)田中靖規/集英社

 

会社の大好き先輩の激推し作品。去年からずっと『サマータイムレンダ』を見ろと言われ続け、8月、9月をかけて完走した。普段自分からは手を出さないジャンルの作品なので、とてもいい経験だったし面白かった。おまけに本作の下敷きの一つに水蛭子伝承があるので、『太陽諸島』とぼんやりと関連がある感じなのもよかった。

 

 

和歌山の田舎の島が舞台。主人公・網代慎平は、親友かつ家族の死をきっかけに久しぶりに里帰りする。そこでは、「自分の影を見ると死ぬ」という伝承があり、ヒロインである小舟潮は自らの影を見たから死んでしまったのだという。和製ホラーのような趣で始まり、「『あの花』みたいな感傷的な物語なのかな?」と予想して観ていた自分は、第1話の突然のヴァイオレンスなグロシーンに戦慄する。結論、全然違うジャンルだった。コズミックホラー兼ループもの兼異能力バトル。絶対自分から読もうとしないなほんとに…。

 

 

ホラー耐性もグロ耐性もないので、序盤はただただきつかった。アニメは2クール分あり、1クール観終わったところでギブアップ寸前だったため、残りは漫画で読むことにした。結果的にこれは大正解で、漫画だったら大丈夫だった。みるみるのめり込み、マレーシアに向かう飛行機の中で全て読み終えた。

 

 

作者はかなりのゲーム好きであることが端々から伺われ、本作はゲームに対する批評として自分は読んだ。リセットボタンを押してそのプレイをなかったことにし、勝つまでやり直す。近年では『仁王』や『SEKIRO』などのいわゆる「死にゲー」が流行っていたが、本作の「ループして情報を集め、怪異と戦う」という根本的なモチーフはゲームのそれである。本作はその形式的なところに果敢に切り込み、テレビゲームの体験のようなエンターテイメントを展開する。本作のラスボスたるシデが事あるごとにゲームプランナーみたいなことを言い、「FF7リメイクやりたかったな~」と言い出すのがツボだった。あと、やっぱり金髪美少女のヒロインがはちゃめちゃに戦うアクションは大変よかったです。