2023年5月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

・村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年。Kindle版。)

5月の後半は村上春樹の最新作の長編小説と結構なリソースを割いて対峙していたのだが、結論から言うと「なんだかすっごく微妙でした」というのを頑張って言語化しなきゃいけない事態となってしまった。大変残念である。

 

 

本作は、かつて発表されたが書籍化はされていない同名の中編小説を大幅に書き直した作品であり、作者が後書きで語る通り『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』として結実したテーマのもう一つのあるべき姿なのだが、『世界の終りと~』に比べるとかなりイケてない。まず何が問題かというと、本作にはエネルギーが全然感じられないのだ。『ねじまき鳥』の圧倒的な暴力性、『カフカ』の希望に満ち溢れた光、『1Q84』の重大なタブーに切り込んでいく覚悟、といった強い熱量が本作には全然ない。一方で、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はそれはそれで若いエネルギーに満ち溢れている小説だったので、それを思うと本作は出涸らしとまで言ってしまいたくなる。語り直されなければならなかったというのは作者も言ってるけど、なんでこれが語り直される必要があったのかが全くわからない。

 

 

本作は第一部から第三部の三部構成からなるが、第一部はまんま「世界の終り」セクションの話だ。「知ってる話ですけど」と思いながら読み進めていたらいつの間にか終わった。第三部も、「世界の終り」の主人公である「ぼく」が行ったかつての「責任ある決断」を無効化するだけで終わる(柄谷行人が「これは無責任だよ」ってボロクソに言っていたやつ、この柄谷の指摘はほんとすこ)。一方で、最も長い第二部の福島県の田舎の図書館の話は結構よい。固有名を持つ人たちが魅力的で、特に子易館長と添田さんがすごくよかった。地方の図書館で穏やかに生きる人々への眼差しは暖かい。これから生まれてくる自分の子どもに対し、男の子だったら森(しん)、女の子だったら林(りん)と名づけよう、と考えていた子易館長が、「わたくしどもとしては最初からずっとそのつもりでおりましたよ。実はこれまでお勤めになっていた会社の同僚の方からも、内々にお話をうかがいましたが、ああ、あなたの評判は間違いないものでした。仕事においては有能であり、人柄も森の樹木のように誠実で信頼できると」と主人公に最初に語りかけているの、めちゃくちゃよい。

 

だが、第二部の田舎で、主人公とコーヒーショップの女性が宅配ピザを頼んでいる描写は非常にいただけない。主人公が作る手料理のパスタがなんか福島の田舎に似つかわしくねえな、というのは百歩譲っていいとしても、「ファーストフードのチェーン店がひとつもない」街って書いているんだから。ここだけ馴染みのある都会描写を手癖で書いちゃったんじゃないの?と意地悪なことを言いたくなってしまう。

 

 

本作のエピグラフで引かれているサミュエル・テイラー・コールリッジの「クーブラ・カーン」もまた、麻薬の幻想で夢みた理想郷のヴィジョンである。学生の時にお世話になった先生が「コールリッジの研究者にとって本作は精読対象である」と言っていて、「まあそうねえ」と思わないでもないのだが、多分『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の方を掘った方がいいのではないかという直観がある。それでも、「クーブラ・カーン」に出てくるザナドゥと、そこに流れる聖なる河アルフや力強い泉が「作り上げた街」から脱出する描写と共通しているのは多分重要なんだろうなと思わないこともない(そんでもって、本作のおかげで久々に『コールリッジ詩集』を読み返すことになったのは明確な利点である)。

 

 

イギリス・ロマン派の詩の研究に携わっていた者として、コールリッジを引いている本作に対し思わないことはないわけではないのだが、いかんせん期待が高かっただけにガッカリ感が強くてあまり言語化できていない。コロナ禍やウクライナの戦争で世界は大変なことになっているのに、今の村上春樹は社会にコミットするエネルギーはもう枯れてしまったのか、地下鉄サリン事件の関係者に熱心にインタビューしていた時期の膨大なエネルギーはどこいっちゃったんだよ、という感じである。

 

・コナン・ドイル『緋色の研究』(原著:1887年。駒月雅子訳、KADOKAWA、2012年。)

次段で述べている通り、『名探偵コナン』に久方ぶりにドはまりしたので、ホームズをちゃんと読まなきゃなと思って読んだ一冊。僕はシャーロック・ホームズよりもエルキュール・ポアロ派だったので、あまりちゃんとコナン・ドイルを読んできていなかった。

 

 

かつては娯楽小説・大衆小説と目されてきたコナン・ドイルの作品群は、現在ではイギリス・ヴィクトリア朝文学の正典(Canon)の仲間入りを果たしているのだが、その理由が本作を読んでなんとなくわかった気がした。物語冒頭、インドからロンドンへと戻ってきたワトソン博士に「大英帝国の隅々から暇をもてあました有象無象が流れこんでくる、巨大な汚水溜めともいうべき大都会」(10)と言わせているところに、ノリがチャールズ・ディケンズと共通している。また、これは留学中に読んだNorton編のVictorian Literatureのアンソロジーに書いてあったことだが、「理性を働かせた客観的な推理によって隠された謎を暴きだす」という探偵小説のお作法自体が、「理性に基づく論理詰めによって問題は解決し好転する」というヴィクトリア朝における一般的な社会認識や時代精神を反映しているらしい。確かにそうだよな。

 

 

純粋に探偵小説として、現在の水準で読んでもなかなか面白い。第二部のモルモン教の挿話に基づく動機語りは長くて退屈だし、大英帝国の悪いところが出まくっている(そんでもって「モルモン教の描写は不適切なところがありますが」という注釈を絶対につけなければいけなくなる)のは欠点だが、ホームズとワトソンの魅力は今も色褪せないものがある。「人生という無色のもつれた糸の束には、殺人という緋色の糸がまじっている。僕らの仕事は、糸の束を解きほぐして緋色の糸をより出し、端から端までをつまびらかにすることなんだ」(64)というホームズの台詞は、あまりにも格好いい。

 

<映画のこと>

・『劇場版 名探偵コナン 黒鉄の魚影』(監督:立川譲、2023年。)

 

『劇場版 名探偵コナン 黒鉄の魚影』(C)2023 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会

 

『名探偵コナン』は世代ど真ん中の作品であり、実は子供の時から熱心に視聴をしていた。

コナンがいつの間にかキャラクターコンテンツ全開となってから、ここ10年くらいはしばらく離れていたのだが、最近Huluを契約したことにより久方ぶりにコナンにドはまりした。あまりきちんと理解していなかったバーボン編以降を4月からざーっと履修し、ゴールデンウィークにコナン映画を観に行った。最後に劇場に観にいったのは2009年の『漆黒の追跡者』ぶり(奇しくもこれも黒ずくめフィーチャー作品だ)だから、実に14年ぶりのコナン映画鑑賞である。

 

結果、激烈にクオリティーが高くて結構引いた。数年前からコナン映画は100億を狙えるコンテンツとなっていたが、直近のコナン映画ってこんなにクオリティ高かったんやな。人気キャラクターごとについているであろう熱心なオタクに対して、毎年このクオリティーを維持しているのは並大抵ではない。たいへんよかったです。

 

 

今年のメインは灰原哀が務める。東京・八丈島近海に建設された、世界中の警察が持つ防犯カメラを繋ぐ海洋施設「パシフィック・ブイ」がその舞台となる。「パシフィック・ブイ」は、AIを用いて映像内の人物の成長・老化後の容姿を推察し、それによって年月を隔てた動画内の人物を一致・認証させる「老若認証」という技術も擁していた。そして、これによって宮野志保と灰原哀が同一人物であると認証され、黒の組織の潜水艦に拉致されてしまう。

 

 

まず最初にケチだけつけておくと、仕事の影響でITのセキュリティ関連や個人情報保護関連にそこそこ詳しいため、「パシフィック・ブイ」のガバガバさが後々よく考えると気になってきてしまう。「そもそものところでUSBを挿せるようにすんな、そして抜き出した個人情報を持ち出すな」「GDPRは大丈夫なんですか」「ログをいくらでも勝手に改ざんできるようにすんなや、改ざんに対する統制を敷いておけよ」「バックドア仕掛けられまくっているのあまりにもクソザコすぎる」等々、システムの設計も組織のガバナンスも不備だらけである。とんでもない重大セキュリティインシデントが起こる前(もう起こってるけど)に、あんなガバガバ組織は爆発して沈めて正解であると思ってしまった。

 

 

まあ、上記は些末なところである。フィクションとしては「老若認証」という道具立てを1つ持って来ただけで、本作におけるクリティカルな問題群を的確に捉え、1つの映画作品に落とし込めてしまうのだから、あまりにも鮮やかで素晴らしい。また、「灰原哀を窮地に追いやるのは悪意ではなく善意からにしたかった」という監督の意図も大変よいし、今のAI技術で将来実現するかもしれないと想像しやすい「老若認証」という架空のテクノロジーを採用するのも、注目に値する批評的着眼だ。

 

 

本作は、サスペンス、ラブコメ、キャラクターものとして文句なしに完成度が高いだけじゃなくて、「子どもの言葉や行動でその後の人生が変わることがある」というテーマで教訓譚としても成立しているのが素晴らしい。なんかグッときてしまった。子どもの言うことを信じる/信じないで、直美と佐藤刑事、黒田管理官と小五郎のおっちゃんで対立軸を作っていたのも上手い。

 

 

キャラクターコンテンツとしても美味しいところいっぱいだったのもやはりよい。本作のメインである、灰原哀と江戸川コナンの関係性の挿話はもちろんのこと、個人的には阿笠博士がガチ泣きしていたのもすごくよかった。「自分にとっての唯一の家族」という前日譚の台詞もぐっとくる。黒の組織メンバーも見どころ満載である。僕は本作を受けてベルモット姐さんの株がストップ高になってしまったのだが、その他にもキールと直美の父親を巡る挿話で共通項を作っていたのもいいし、ジンが相変わらず冷酷だが、あの性格的に組織に所属して動くことはなんかあまり向いていないんだろうなという捉え方が新鮮だった(ウォッカの方が組織員としては優秀だと思う)。今回は出番が控えめながらも、コナンを介した終盤のやり取りには赤井と安室のオタクもニッコリであろう。

 

 

もう1個だけ言っておくと、コナンと灰原が「助ける」「助けられる」で相互に助け合っているのが非常によかったと思う。普通だとコナンが灰原を助ける展開だけだと思っていたので、お互いに助け合える関係になっています、と提示していたのは今の世の中の雰囲気にも合っているし、コナン世界とキャラクターの円熟を感じられる。