2023年3月、4月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

春が来ました!!

 

 

・國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院、2017年。)

『暇と退屈の倫理学』がヒットしている國分先生の著作。毎年入試応援と題して母校の恩師と1日を過ごすイベントがあるのだが、今年は現在大1の後輩が参加し3人での1日となった。その彼は1年にして超域の現代思想に行き、國分さんのもとで現代思想をやりたいというビジョンをはっきり持っている優秀な後輩で、ホンモノである。そんな哲学と思想に明るい未来有望な後輩と過ごしていたこともあり、気になっていた著作を買って読むに至った。かなり面白かった。生活世界に密着した、わかりやすい着眼点から出発しつつも、多様な思想家・研究者・分野にまたがり思想を展開していく様は本当に素晴らしいし憧れる。

 

 

本作では「中動態」というかつて文法カテゴリにあった態を手掛かりに、「する/される」「能動/受動」の二項対立に果敢に切り込んでいく。依存症患者は自分の意志が弱いから依存に陥ってしまうのかというと、本当にそうなのか。やりたくないけどやってしまうという事例は「能動/受動」の対立軸にうまく位置づけることができない。本作で出てくる「カツアゲ」の例が秀逸だなと思ったのだが「誰かに脅かされて強制的にやらされているが、見方によっては自分でお金を払っている」という事象も能動なのか受動なのかというと微妙である。そんなことを考えていたら、給与をもらって働かされているという事態もそのカテゴリに入ってしまう。

 

「中動態」とは能動態と対立する文法カテゴリであると、言語学者のバンヴェニストは定義している。主語が動作の内側にいるか、外側にいるかという対立軸によって、中動態と能動態が区別される。「馬のつなぎを外す」という動詞について、中動態で使われる場合は、「動作主がつなぎを外してその人が馬に乗る」ことを意味する。一方で、能動態で使われる場合は、「動作主が別の人が乗るために馬のつなぎを外す」ことを表す。というわけで、その動作の向かう先に主語が含まれる(外して自分で乗る)か含まれない(誰かが乗るために外す)かという違いである。

 

 

現代英語でも能動/受動の対立軸に収まり切らないよくわからない言いまわしというのは確かにあり「Your translation reads well.」(君の翻訳は読みやすい)という文は、翻訳を読むのは発言主であるのに文章上の主語には人間が立ち上ってこない。「It rains」(雨が降る、でもこの「It」って何だよってずっと思っている)もそうだが、こういう「非人称構文」を本格的に洗っていくとやっぱり面白いんだろうなという感じである。

 

 

一番なるほどと思いながら読んだのは第5章「意志と選択」で、リンゴを用いた卓抜した比喩で「意志」と「選択」の在り様を説明している。なぜリンゴを食べたのかというと、「ビタミンを欲していたから」「美味しそうなリンゴの映像を見たから」「何者かに「美味しいよ」と唆されたから」(その唆したヤツはサタン扮する蛇なのは暗黙の了解とされている)など様々な要因がありうるし、「リンゴが好きだったかもしれない」「初めて見てこれは食べられると判断するだけの知識はあったから」など、過去にあった多種多様で数えきれない要素の影響の総合として、「リンゴを食べる」という選択がなされたはずである。

 

ところが、一度「リンゴを食べる」という行為の責任が問われると、「選択」は後退し代わりに「意志」が現れるようになるという。色々な要素に応対してなされる「選択」は(純粋でないという意味で)本来不純であったはずなのに、あたかも「リンゴを食べようと思ったから食べた」という純粋な「意志」にすり替わってしまうのである。

 

ここの説明が簡潔で鮮やかなうえ、自分の人生観にもフィットするような感じがして非常によかった。「自由意志」を完全に否定するわけではないのだが、「乗るエスカレーターを選べるだけ」というのが自分の人生観なので。

 

 

文学マンとしては第9章「ビリーたちの物語」の分析が一番面白かった。この章はまるまるメルヴィルの中編小説「ビリー・バット」の文学批評に充てられており、思わぬところでバーバラ・ジョンソン(20世紀の文学批評家)と再会して「ほえー」となった。バーバラ・ジョンソンの見事な脱構築批評の分析に応答しつつ、國分さん自身のメルヴィル読解を展開していく手つきの良さに「思想家は文学批評もできるのか」と舌を巻いた。と同時に、「完全に自由に生きられるわけではないが、完全に強制されるわけでもない」という中動態の世界に生きる我々と重ね合わせるところは、なんというか普通に生活を送る一市民として感じるところがたくさんあるような気がした。

 

・髙嶋政宏『変態紳士』(ぶんか社、2018年。)

『変態紳士』(C)MASAHIRO TAKASHIMA

 

テレビで何気なく流れたタイトルと表紙の写真のインパクトで気になり図書館で借りてぱーっと読んだ。面白かった。

 

 

初っ端からSMの話でかっとばしていて「おお」という感じなのだが、水素がめっちゃ体にいいとかスピリチュアルな話とか眉唾な話がどんどん出てくるため、変態であると同時に変な人なんだなというのがわかった。

 

今では奥さんのシルビアさんにデレデレしているところがテレビに出まくっているが、結婚当初はきつくあたる嫌なパワハラ夫だったという話が意外だった。それと符合するかどうかは微妙だが、ずっと体調が悪かったがマッサージの凄腕の人と出会って身体のメンテナンスをされてからスーパーマン状態です、という話もなんだか印象に残った。健全な魂は健全な肉体に宿ります、というのはあながち本当の話なのかもしれない。

 

・Koi『ご注文はうさぎですか?』(11)

 

『ご注文はうさぎですか?』11巻表紙。(C)Koi/芳文社

 

1年以上ぶりとなった『ごちうさ』の新刊。たいへん素晴らしかった。

第10巻からついに話を畳み始めた兆しがあったが、今回でも非常に重要な別れが描かれた。「行く先に美しい希望があれば別れも幸せの過程にすぎん」という言葉は、『ごちうさ』が10年以上幸せな物語を紡いできたからこそ提示できる重要なテーゼであると受け取った。そして、それは来たるべき「木組みの街」に残る者、去る者との別れの場面でももう一度現れるのだろう。

 

 

あとがきでも言及されているが、ティッピー役の清川元夢さんが旅立たれたことは、やはり言葉にならない寂しさと悲しさを『ごちうさ』ファンとしても感じていた。

 

「死者と言葉を交わすのが作家の仕事」と以前『ごちうさ』論に書いたが、今後も『ごちうさ』は生者と死者が優しく交流するファンタジーを描き続けてくれるのだろう。本当にあと少し物語が動けば完結しちゃいそうなのは惜しい気持ちなのだが、最後までしっかりと見届けたい。

 

 

いつもに比べて大分薄味な感想だが、11巻はなんだか思い入れが強くて逆に今書けることが少なく、十分に言語化できていない。

悲しみや寂しさもある巻数だったが、でもいつものように変わらない多幸感も溢れていて、本当にすごいな。

 

<映画のこと>

・『BLUE GIANT』(監督:立川譲、2023年。)

 

(C)映画「BLUE GIANT」製作委員会

 

会社の大好き先輩が上原ひろみの熱心なファンなので存在を知った映画。大変素晴らしかった。音楽をやっている人間の端くれとして、結構思うことがたくさんあった。

 

 

本作のストーリーは極めてシンプルである。ジャズプレイヤーを目指して宮城から上京してきた宮本大のサクセスストーリーで、同じくジャズピアノを弾く沢辺雪祈と、大の同級生かつ同居人で、ふとしたきっかけでドラムを始めた玉田俊二と共に10代でSo Blueのステージに立つことを目指す。極限まで台詞を削ってプロットもシンプルにしたうえで、重要なことは全て上原ひろみの音楽とジャズプレイに依拠している。正しく音楽に全特化しているところが非常に評価が高い。

 

 

僕は玉田くんが So Blueのステージで本当に素晴らしいドラムソロを叩くところで一番泣いてしまった。「僕は君の成長するドラムを聴くために来ている」と語ったファンのおじいさんがめっちゃよかった。最初のステージから聴いていたら、最高のステージであんなソロ聴いたらもう死んでもいいと思ってしまうな。

 

 

本作の主人公の宮本大くんが天才の異常者であること以上に人間味が全くないのが完全に正しい。結果だけを見れば雪祈くんを踏み台にして軽々と次のステップに行きよったその慈悲のなさは、間違いなく天才の所業である。夢の舞台の直前で不慮な事故に遭ってしまった雪祈くんは本当に可哀想だけど、音楽を続けられない事情はたくさんあるという話をしていたところと、一方で、それでも自分は音楽を続けてやるという意志を見せたところで、意外と未来は明るいんじゃないかという印象を受けた。

 

 

僕は宮本くんの孤高の天才性を『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公・後藤ひとりとどうしても重ね合わせてしまうのだが、『NEW GAME!』論で飯島ゆんさんの話を書いたのもあり、天才の物語にはあまり興味がなく(天才や異常者は勝手にやっとけと思っているので)、むしろその周囲にいる凡庸な人たちの在り方に関心があるというのを改めて認識した。『ぼざろ』だったら喜多ちゃんだし、本作だったら玉田くんである。初心者が頑張って素晴らしいプレイをするまでに成長する描写に弱いのかもしれない。

 

 

いい映画だった。とにかく音楽が素晴らしい。演奏を聴いて涙を流すなんて、得難い経験としてある。