2023年冬クールに観たアニメのこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

冬クール以外もアニメを観ているはずなのですが、やっぱり冬クールだな!!という感じです(よくわからない)

 

・『お兄ちゃんはおしまい!』

この冬を生き長らえたのは『おにまい』のおかげであるのは間違いないのだが、学校編が始まってから熱量が下がってしまったのも事実で、お兄ちゃんが学校に馴染んでいくにつれTSFとしての本作の特質が特になくなってしまい、なんとなく微妙に古臭い感じがする百合学校日常モノみたいな趣きになってしまったのが結構残念だった。生理やお手洗いといったシモの話と真正面から向き合ったり、成人向け漫画を女子中学生に片づけさせたりといった初期の切れ味は次第に失われてしまい、まひろちゃんが段々と元オタク引きこもり成人男性で、女の子にトランスしてしまったという設定の必要性が特になくなってしまったのが大変もったいなかった。

 

 

とはいえ、本作を通してストーリー構成を務められた脚本家・横手美智子への信頼感をさらに強めたのは間違いない。

横手さんの二人芝居の脚本は本当に良くて、横手さんはキャラが少なければ少ないほど脚本が光り冴えわたる。

僕が一番好きなのは第2話の「女の子座りを指摘する」くだりで、「あ、」「女の子座り」(みはり)「?」「ハッ!!」(まひろ)という間の取り方が大変素晴らしい。

 

『お兄ちゃんはおしまい!』第2話(C)ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

 

お兄ちゃんが女の子座りをしているところにふと気がつくところと、妹からの指摘を一度流してから事の意味を悟るところの、その所要時間とタイミングの描き方が凄まじい。確かに現実世界においても、相手が言ったことを受けて咀嚼するまでに少し時間がかかることはよくあるため、この描写は大変リアリティがあるように感じられる。

 

 

他にも、僕は第4話のただただ寂しくなっちゃっただけの挿話と、第5話のただただ美容院に行くだけの挿話が本当に本当に好きで、極限まで台詞を切り詰め、日常の様子とキャラクターの心の在り様をミクロに描いていくその脚本の妙に、「僕が見たい理想の日常系アニメはこれだったのだ」と天啓を得たのも間違いなくある。その腕と想いが結集しているのは第9話のクリスマスの挿話で、台詞が一切流れず、キャラクターの動きだけで全てを語る一連のシークエンスの評価が大変高いことは言うまでもない。

 

 

『お兄ちゃんはおしまい!』第9話(C)ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

 

このシーンは、スマートフォンの自撮りが反射する画面を描くことによってキャラクターたちの楽しく浮かれている雰囲気を描き出すという手法となっているのだが、なんというか2023年における最新の表現手法という印象を受けたのもなんだかよかった。

 

 

・『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』

タイトルからわかる通りのライトノベル原作で、原作から特に捨象せずに持ってきたと思われる台詞は全て冗長かつ鼻につき、視聴はなかなか苦しいものがあった。一例を挙げると、「真昼の心が狭いなら大概の人間は心の広さがミリ単位になるぞ」という台詞、現実世界で口にするヤツいるか?

 

この台詞量の多さとテンポの悪さはアニメという媒体には全く適していない。これは絵が動かないギャルゲーのテンポ感だよなと思ったが、本作がギャルゲ―の台詞だったとしても結構冗長で、多分途中で飛ばしていたと思う。

というわけで、これまであらゆるところで何度も書いてきているが、アニメは言葉ではなく絵で語ってほしい。

 

 

台詞や言葉に対するケアがこの程度であるため、キャラクターたちの魅力やリアリティがいまいち立ち上ってこないのも推して知るべしという感がある。主人公である周くんが同級生に金づるとしか扱われなかったこと、真昼が両親からの愛情を受けられずに常に「天使」として振る舞うことを要請されてきたこと、などのメインキャラクターたちのトラウマが、あまり説得力をもって伝わってこず、「設定」としてしか受け止められなかった。もっと言うと、周くんの中学時代の「お友達」、真昼の毒親たちは「悪い人」、対して周の両親や、友人である樹、千歳、門脇くんは「良い人」と、どこまでも設定がただ歩いているだけで、最後まで記号の次元に留まっていたところに、本作における人間認識とモラル観のどうしようもないレベルの低さを感じてがっかりした。

 

 

まあ、本作の主眼はそこではなく、ただただ周くんと真昼ちゃんが二人っきりの空間でイチャイチャしているのを眺めるのがよい、というところにあるので、二人以外の社会空間や人間関係の描写は別にどうでもいい。ヒロインだけが魅力的なのではなく、主人公も魅力的に見えるからカップルとして応援したくなる、というラブコメが最低限クリアすべき条件は満たしていたので、まあ1度切ったけれども完走してしまったな、という感じである。あと、石見さんのヒロインのお芝居が純粋に好きだった。

 

 

ここまで辛辣なことを書いてきたが、第10話だけはよくできていた。

「私は周くんに触られるの、好きですよ」という台詞から、真昼が誘惑してくる性夢を見てしまう、という現実と夢がない交ぜになってしまっているシークエンスだけはやたら洗練されていた。あそこだけ村上春樹の小説を読んでいるかのような流れの良さがあって、僕はここだけかなり評価が高い。第10話があれほどよかったのだから、第11話と最終話ももうちょっと跳ねてもよかったんじゃないかと思うところがある(第11話のあのラストはさすがにどんな恋愛ものであってもキスするだろ……)。

 

(C)佐伯さん・SBクリエイティブ/アニメ「お隣の天使様」製作委員会

 

・『多田くんは恋をしない』(2018年春クール)

 

ヒロイン役・石見舞菜香、主題歌・オーイシマサヨシの配置で、5年前に観ていた『多田くん』をふと思い出したので再見。めちゃくちゃよかった。それにしても、オーイシマサヨシの作るアニメ主題歌はいつもめちゃくちゃよい。
 

 

『多田くんは恋をしない』第8話(C)TADAKOI PARTNERS

 

5年前の本放送時は、それまでの積み上げ方が完璧すぎたゆえに「あなたを追いかけて来ました!」というちゃぶ台をひっくり返したかのような結末にただただ落胆してしまっていたのだが、今観直してみると別にそんなことはなかった。あれが正しいエンディングだったと考えを改める結果となった。

 

「この恋を一生忘れません」とお別れエンドになることも物語のあり得べき美しいエンディングとして考えられるが、やはりテレサと多田くんが結ばれてこそ平成の終わりにふさわしいラブコメなのだろう。

 

 

本作がきわめて優れているのは、主人公がしばらく前景化してこない構成にある。

第6話くらいまで多田くんはかなり控えめで、むしろその周囲の写真部の人たちにスポットライトが当たる。僕は第4話のピン先輩と委員長の挿話が本当に好きなのだが、多田くんとテレサ一辺倒にならず、周囲の人たちも描きながら主人公とヒロインの掘り下げも着実に行っているところに、本作の恋愛群像劇としての質の高さを物語っている。

 

 

それにしても、多田くんがラブコメの主人公とは思えないほど自意識がないところが大変素晴らしい(こんなに好感度が高くて応援したくなるラブコメ主人公他におる??)のだが、それは両親を幼くして亡くしたことを経て自分の気持ちをあまり表に出さないタイプであるためというパーソナリティと結び付いているのが上手い。彼のその性格を描くからこそ、無理をしてテレサに会いに行き、想いを伝えるというクライマックスへと自然とつながっている。その辺のキャラクター造形と物語構成の流れのうまさが洗練されすぎている。

 

 

本作はアイテムの使い方もうまく、数多くの効果的なアイテムがおしゃれポイントを上げている。

コーヒー、チョコレートスプーン、れいん坊将軍、雨、虹、河童、北極星、などたくさん挙げることができるが、その中でも筆頭はやはり写真である。

 

『多田くんは恋をしない』第8話(C)TADAKOI PARTNERS

 

多田くんの父親が最後に撮った写真をきっかけに、テレサは多田くんと自身のトラウマを共有する。

多田くんが撮ったテレサの写真をきっかけに、多田くんはテレサへの恋心に気づく。

大切なことに気がつく契機は、いつも写真が担っている。

過去の現実を写し取って再現(Represent)する写真というモチーフと、「過去の後悔を繰り返さないために、今の行動を変える」という本作のテーマがとても有機的にリンクしており、ただの恋愛ドラマに収まらない奥行きを本作に与えている。なんというか、普段ドラマによく親しんでいる人にこそおすすめしたいアニメ作品という思いがある。