ベンチ
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ベンチとは、椅子の一種で主に日本では2人以上座ることが出来る長椅子を指す。なお、個々の区画に区切ることがないため、肘掛けがない、あっても両端部にのみ設置している事例が多い。また、背の部分がない椅子であることが多い。
尚、形状については、必ずしも長椅子ではなく、上から見ると円形・楕円形・三角形のものもある。
主に、公園や街路樹、待合室、駅のプラットホームなどに設けられることが多い。
材質としては座面には木材、プラスティック等が用いられ、脚部に金属が用いられる場合が多い。また、脚部固定のために地表に据え付けるためにコンクリートや石等を用いる場合がある。
一般に、公共施設に設置されるものにはリサイクル材を用いる場合がある。変わったところでは、京王電鉄が自社で発行・回収した定期乗車券を廃棄する際にベンチの座面に再利用した事例がある。
定員については、形状上1人掛けのものもあるが、基本的には2人以上座れることが多い。しかし、鉄道車両のロングシートなど設計上の定員はあるものでも、設計が古い、荷物置きなどにつかわれるなどで実際にその定員を守ることが利用者のマナーに委ねられる事例がままある。
なお、自動車の一部にはこれに類似したベンチシートがあるが、背ずりがあり、また自動車用の椅子でもあることから、安全装置としてシートベルトが設置されているため、乗客の位置が決まっていること。その為、座面が平面になっているという程度の意味合いに近い。
そして写真のベンチはけんぢが今年、福島県郡山市に出掛けた時に撮影した「21世紀記念公園 麓山の杜
」のベンチ
21世紀記念公園 麓山の杜は郡山市の市街地の中心部に位置し「人々を誘い、人々が集い、にぎわいのある活気に満ちた21世紀に向けての新しい街づくりのため、その先駆けとなるとともに、市民に親しまれ、市民が誇れるような公園づくり」をテーマに、「豊かな花・緑・水」の文化・交流拠点として、また防災公園としての役割を果たしています。
公園内には緑の相談コーナーやカフェが入居するとんがりふれあい館、日本庭園があり茶室も兼ね備えた麓山荘、四季折々の草花が見られる杜の花壇、安積野広場、杜のエントランス、災害時の備蓄倉庫や耐震性貯水槽などがあります。
住所 郡山市麓山1丁目16-17
電話 924-2194(とんがりふれあい館)
交通 郡山駅から11番線麓山経由
休石・山田原・御霊櫃行きバス
麓山1丁目下車
または、郡山駅から徒歩約15分
駐車場 麓山地区公共施設駐車場をご利用ください。
トウモロコシ
トウモロコシ
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トウモロコシ(玉蜀黍、学名 Zea mays )は、イネ科の一年生植物。穀物として人間の食料や家畜の飼料となるほか、デンプンや油の供給源としても重要で、年間世界生産量は6億トンに達する。
日本語では地方により様々な呼び名があり、トウキビ(唐黍)、ナンバ、トウミギ、コウライキビなどと呼ぶ地域もある(詳しくは後述)。
コーン (corn) ともいう。この語は本来は穀物全般を指したが、北米・オーストラリアなどの多くの国では特に断らなければトウモロコシを指す。ただし、イギリスでは今でも穀物全般を指すことが多い。
『日本方言大辞典』には267種もの呼び方が載っており、主な呼び方には下記のものがある。
あぶりき - 福井県大野郡
いぼきび - 鹿児島県甑島
うらんだふいん - 沖縄県竹富島(オランダ大麦の意)
かしきび - 新潟県中越地方、佐渡など
きび - 北海道札幌市、長野県南部、鳥取県、高知県など
きみ - 北海道南部、青森県、秋田県、岩手県など
ぎょく - 千葉県の一部
ぐしんとーじん - 沖縄本島南部など
こうらい - 岐阜県の一部、福井県の一部、三重県の一部、滋賀県の一部
こうらいきび - 愛知県尾張、岐阜県
こーりゃん - 香川県大川郡
さつまきび - 岡山県備前
さんかく - 熊本県の一部
せーたかきび - 新潟県の一部、和歌山県日高郡
たかきび - 鹿児島県種子島
とうきび - 北海道、山形県北部、石川県、福井県、香川県、愛媛県、山口県西部、九州など
とうきみ - 山形県南部、福島県西部、群馬県北部など
とうたかきび - 香川県高見島
とうとこ - 島根県北部など
とうなわ - 岐阜県、富山県
とうまめ - 新潟県上越地方、長野県の一部など
とうみぎ - 宮城県、福島県、栃木県、茨城県など
とうむぎ - 栃木県南部
とうもろこし - 関東地方、沖縄県など
とっきび - 山形県の一部
なきぎん - 鳥取県の一部
なんば - 近畿地方、三重県伊賀、岡山県、徳島県など
なんばと - 愛知県三河
なんばん - 愛知県東部、京都府北部、山口県東部など
はちぼく - 三重県伊勢、岐阜県の一部、滋賀県の一部
ふくろきび - 長野県の一部、和歌山県の一部
まごじょ - 宮崎県の一部
まめきび - 新潟県の一部、岐阜県岐阜市、長崎県の一部など
まるきび - 岐阜県の一部
まんまん - 広島県、島根県南部など
もろこし - 長野県、山梨県など
やまととーんちん - 沖縄県首里(大和唐黍の意)
日本全国いろんな呼び方があるねぇ。
信楽焼
信楽焼
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信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる日本の伝統陶磁器、炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。
【信楽焼とは】
信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。信楽焼は、長い歴史と文化に支えられ、この地の伝統的な技術によって今日に伝えられ、日本六古窯のひとつに数えられている。
中世末期頃より窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶磁器産地としての歴史が展開してきた。
信楽焼の特徴は、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。
現在、信楽では植木鉢、食器といった日用陶器や建築用タイル、陶板、タヌキ、フクロウ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などが生産され、私たちの生活に根ざした陶器が造られ、需要に対応した技術開発が行われている。
信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
【狸の置物について】
信楽焼の店の前に所狭しと置かれた狸の置物信楽焼の狸の置物の歴史は比較的浅く、明治時代に陶芸家の藤原銕造氏が作ったものが最初と言われている。1951年(昭和26年)、昭和天皇が信楽町行幸の際、たくさんの狸たちに歓迎されたことに感銘して歌を詠んだ逸話によって、全国に名が知られるようになった。
縁起物として喜ばれ、狸が『他を抜く』に通うことから商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。福々とした狸が編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利左手に通帳を持って突っ立っている型が定番となっている。
鈴木その子
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鈴木その子(すずき そのこ、本名:鈴木荘能子(すずきそのこ)、1932年1月20日 - 2000年12月5日)は、昭和50年代から平成年代にかけて活躍した美容研究家・料理研究家。
株式会社トキノ(現・株式会社ソノコ)創業者。東京都出身。学習院女子短期大学食品化学科卒業。
来歴
父は、戦前・戦後を代表する相場師の一人・山中力松だった。縁あり結婚後は永く主婦業に専念し、夫との間に一男一女をもうけたが、実母を生活習慣病で、息子を拒食症(ベランダにでたとき体力が著しく低下していたことによりふらつき転落し落命)で亡くした過去から「食事によって健康的に病気予防・肥満防止が図れないか」の旨料理・栄養研究に没頭、書き上げた著書『やせたい人は食べなさい』のミリオンセラーにより、一躍有名になった。
その米飯を中心とした日本人にとって最適な食の提案は、今でこそ当たり前のように言われているが、1980年代当時の主食を軽んじた副食偏重の傾向に一石を投じ、「ダイエットの教祖」とまで呼ばれるようになった。そして、独自の「鈴木式食養理論」により多くの人々に支持され、創業した株式会社トキノの会員組織・トキノ会は30万人もの会員数を擁するという。
1990年代後半には、その異様に白塗りした顔と、テレビ番組出演の際に顔だけを集中的にライトアップするというその演出方法により、「美白の女王」としても一世を風靡した。
1999年3月に腸閉塞になってからは、体調を崩し気味になった。風邪をこじらせて入院してから1週間後の2000年12月5日午前4時45分、併発した肺炎のため死去。享年68。
晩年は真っ白いお顔でテレビに登場して一世を風靡されていましたが、理念としては立派なものをお持ちだったようですね。 ご冥福をお祈りいたします。
写真は銀座の街並みを撮影して偶然に撮れたものです。
歌舞伎座
歌舞伎座
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歌舞伎座は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。
歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流れを受けて開設された。演劇改良会に参加していたジャーナリスト福地源一郎(桜痴)と金融業者千葉勝五郎の共同経営で、1889年東京市京橋区木挽町に開設された。
それまで最も大きな劇場は新富座で、舞台の間口が8間であったが、歌舞伎座は12間と大きく広がった。従来の劇場をはるかにしのぐ規模の歌舞伎座ができることには、他の劇場(新富座、中村座、市村座、千歳座)から反発もあった。
福地は経営者であると同時に、歌舞伎劇の脚本も手がけた(福地はその後、経営から離れ、座付き作者に専念した)。市川團十郎 (9代目)、尾上菊五郎 (5代目)らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊時代」の舞台として、文字通り歌舞伎の殿堂となった。1896年に株式組織化した。
株式会社歌舞伎座
東京都中央区銀座四丁目12番15号
電話 03-3541-3131(代表)
設立 昭和24年11月




