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男はつらいよ


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京成金町線柴又駅前にたつ、寅さんの銅像



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia )』

「男はつらいよ」は、渥美清主演・山田洋次監督(一部作品除く)の喜劇映画シリーズ。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。


概要
映画シリーズは松竹によって1969年から1995年までに全48作が、1997年に特別編1本が製作された。

山田洋次が全48作の原作・脚本を担当。第3、4作を除く46作を自ら監督した。第3作の監督は森崎東、第4作は林俊一である。全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美清の死去により、1995年に公開された第48作「寅次郎紅の花」をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、「寅次郎ハイビスカスの花」を再編集し新撮影分を加えた「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」が1997年に公開された。また渥美の死によりお蔵入りになった作品が2作品ある。

クマゼミ


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 クマゼミ(熊蝉)Cryptotympana facialis は、カメムシ目(半翅目)・ヨコバイ亜目(同翅亜目)・セミ科に分類されるセミの一種。西日本を含む東アジア亜熱帯域に分布する大型のセミである。


特徴
 成虫の体長は60-70mmほど。アブラゼミやミンミンゼミにくらべて頭部の幅が広い。翅は透明で、背中側はつやのある黒色だが、腹部の中ほどに白い横斑が2つある。また羽化から数日までの個体は、背中側が金色の微毛で覆われる。腹部は白、褐色、黒の組み合わさった体色で、オスの腹部には大きな橙色の腹弁がある。


 分布域は関東地方南部以西の西日本から南西諸島(台湾、中国に分布するという報告もあったが、台湾の記録の多くが近縁のタカサゴクマゼミの誤同定で、中国大陸の分布も疑わしいと思われる)で、これらの地域では個体数が多く、都市域でも普通に見られるが、奄美諸島の喜界島、奄美大島、徳之島には従来分布しない。ただし日本では1990年代頃から関東地方でクマゼミ生息地の東進・北上が報告されている。これは地球温暖化の影響とも云われるが、樹木の移植の際に根の周囲に幼虫が混入しているという説や、ヒートアイランドによる都市部の気温上昇など他の原因も考えられ、単に温暖化の影響で片付けることはできない。また、従来分布しないはずの奄美大島と徳之島でも生息が確認されたが、これは人為的移入とみられている。


 9月に入りめっきりセミの声も聞けなくなってしまいましたが、この写真は今年の夏休みに東京に出かけた際に不忍池の畔で撮影したものです。


 今年のひときわ暑かった夏も終わろうとしてますね。

阿蘇大観峰


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 阿蘇大観峰(だいかんぼう)は阿蘇外輪山の最高度地点標高936mにあり、阿蘇随一の眺めを誇る天然の展望台で阿蘇観光の中で中岳の火口とともに定番中の定番となっている。
 大観峰からは阿蘇五岳、遠くは九重の山々、真下に広がる阿蘇谷などが箱庭のように望める。

 以前は遠見ガ鼻と呼ばれていたそうですが、熊本出身の歴史家徳富蘇峰によって、大観峰と名づけられて以来、大観峰と言う名前で定着した。


 阿蘇大観峰から眺める360度のパノラマは「壮大」の一言です。 阿蘇を訪れた際には是非ともお立ち寄りくださいね。

くま川下り(球磨川下り)


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くま川下り(球磨川下り)


 球磨川は、熊本県南部を流れる球磨川水系の本流となる一級河川。 静岡県富士川、山形県最上川とともに日本三大急流の一つで船頭さんの巧みな棹さばきで下る。

 人吉から渡までは比較的穏やかな流れであるが、渡から球泉洞下までは急流を下る。

 かつては船運が盛んであったが、肥薩線の開業、道路の整備、森林業の衰退等があり、現在は観光船の運行程度となってしまっている。


熊本県人吉市下新町333-1         
くま川下り株式会社  
予約センター電話 0966-22-5555

鹿児島市中央公民館


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 鹿児島市公会堂として1924年(大正13年)、摂政宮(後の昭和天皇)ご成婚記念事業として鹿児島市が計画し、27年(昭和2年)に落成した。設計は片岡安(やすし)(1876~1946)。大正初めに近代的な都市計画を研究した当時の日本建築界の第一人者だ。


 地下1階、地上3階のコンクリート造り。延べ床面積約3480平方メートル。入り口の正面側に階段や事務室、応接室などの小部屋を集め、奥に2層吹き抜けのホールが広がる。丸い柱が4本、両脇に等間隔に並び、西洋の舞踏会場を思わせる。


 45年6月、空襲で外部構造を残し焼失。4年後に復旧し、公会堂の名称が市中央公民館に改まり、会議やステージ、市民講座の場として今も使われている。50年からは市営の結婚式場にも用いられ、72年までに約1500組が式を挙げた。今でも新郎、新婦が記帳した結婚記念録が残る。


 近代建築の特徴的な建物として評価され、昨年、国の登録文化財になった。地方の建築家の多くに影響を与えたモダンなデザインと技術。中央公民館主任指導主事の福留隆二さん(48)は「昭和初期に建てられたものとは思えないほど、高い技術が随所に見られます」と話している。


引用:読売新聞 近代遺産を訪ねて 九州発