ディテールの重要性を意識することでポーゴさんは“過剰なプロレス”を貫いた | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:ミスター・ポーゴテーマ曲『スタフォロスの戦い』

 

本日23日は、明日闘道館にておこなわれる金村キンタロートークショーの打ち合わせで、主催者である茨城清志・元W★INGプロモーション代表と会う予定だった。自宅で準備していた13時頃、週刊プロレス誌時代の同僚だった矢野寿明カメラマンよりミスター・ポーゴさんが危篤状態であるとの知らせを、保坂秀樹選手から受けたと連絡が入る。


その時は、なんとか持ちこたえてほしいと2人で願ったのだが約1時間後、公となった報道により12時21分、埼玉県内の病院で逝去されていたことを知った。数時間後に落ち合った茨城さんの携帯電話も十数分ごとに鳴りまくり、海外から「本当なのか?」と確認してくる関係者もいた。

 

▲週プロモバイルに訃報がアップされたのは14時7分だった

茨城さんはW★INGを始めるよりもずっと前…週プロの前身である『月刊プロレス』の海外特派員として活動していた頃からポーゴさんと互いに「腐れ縁」と呼び合う間柄で、業界では誰よりも長く時間を共有してきた。「内臓の病気や命に直結するような症状ではなかったから、まったく覚悟もしていなかった。それだけに今は驚きしかないよ…」と、いつも以上の小声で言うのがやっとだったが、とにかくイベントでは直系の弟子である金村に語ってもらおうということで一致した。集まるファンも、それを求めているはずだから。

90年代前半…ポーゴさんが“極悪大魔王”の異名で暴れまくっていた頃、日本のプロレスシーンはまだ価値観が多様化しておらず“表現”などという言い回しが今ほど認知されていなかった。老舗である新日本と全日本のプロレスがあり、そこへUWFスタイルが加わり、それらのいずれにもない“空き家”としてFMWがデスマッチ路線で台頭してきた。

旗揚げ当初のエース・大仁田厚の敵役だった栗栖正伸がFMWを離れたことで、ポーゴさんはこの新興団体に参戦。新日本出身の栗栖さんは「プロレスラーはナメられたら終わり」という哲学だったから、デスマッチというよりも荒々しいケンカファイトで新境地を拓いていった。他の凶器にはほとんど頼らず代名詞となったイス攻撃一本に絞ったのは、大技を何種類も出すよりひとつのことを徹底してやった方が説得力もあるのと同じだ。

これに対し、ポーゴさんは既成概念やセオリーといったものにまったくとらわれないタイプだった。過激なデスマッチでステータスを上げていった大仁田だが、それほどのことをポーゴさんにやられたという裏返し。

鎌の切っ先を人体に突き刺し、チェーンで絞首刑に処し、ビッグファイアーを噴出して相手を燃やそうとするプロレスは、それまであった“悪”の所業を完全に超えていた。アントニオ猪木が“過激なプロレス”ならば、ポーゴさんは徹底した“過剰なプロレス”。大仁田相手に非道ともいえることをやればやるほどそのステータスは上がり、極悪人→魔王→極悪大王→極悪魔王→極悪大魔王と、異名もどんどんアップグレードされていった。

ポーゴさんが目を覆いたくなるような非道っぷりを働いても、大仁田はそれを受けきった上で自分の世界観で締める。一方的にやられたままならトゥーマッチで引いてしまうところを、最後はヒューマニズムで傍若無人さを包み込む。そこにこそ、FMWの他に比類なきカタルシスの極意があったのだ。

一方的にイスで叩きのめす栗栖さんは確かにプロレスの凄みを体現していたが、デスマッチというある種の解放感が求められる土壌においては、この非道さとヒューマニズムの真逆でありながら磁石のN極とS極にあたる関係性が“作品”として見る者の心をとらえる結果となった。では、なぜポーゴさんは限りなく過剰を極めようとしたのか。

新日本を飛び出し、一匹狼として全米を渡り歩いたポーゴさんは伝わることの重要性をサーキットの中で学んだ。日本では、プロレスにおける価値観が勝敗という一元論で語られていた時代である。

どんなに強くても、どんなに巧くても、さらにはどんなにプロレスに対する揺るがぬ信念を持っていても、チケットを買ったオーディエンスがそこに価値を見いださなければ通用しない。アメリカマットは、そういう世界だ。

なんの後ろ盾もない中で食い続けていく術が、ポーゴさんには染みついていた。FMWへ上がる前、フリーとして新日本に何度か上がったものの違った土壌で持ち味を発揮できなかったのも当然である。

それがFMWやW★INGのリングでは、伝えるためにやろうと思ったことがほぼ際限なく許容されるばかりか、むしろ求められた。説明不要の凄惨なシーンや、写真一枚ですべてが理解できるような攻撃を重ねるごとに、ポーゴさんは「パッとしない中堅クラスのフリー」から脱却し、どんどんモンスター化していった。

大仁田も、そしてW★INGでライバル関係となる松永光弘もデスマッチファイターとしては受けのレスラー。常識ではあり得ないような禍々しい目に遭わされてもそれを凌ぎ切ることでプロレスラーとしての凄みを体現し、カリスマ性をまとった。ポーゴさんがいずれの好敵手たり得たのは、誰よりも2人に対し過剰さを貫いたからだ。

 

「FMW参戦が決まった頃、お袋が死んで(自分自身も)なんとかしなければならないと。それで体にムチ打って、ヒールに徹して突っ走った。『もうどうなってもいいや』という気持ちだったから灯油をぶちまけて火を噴いたり、とんでもないことをやっていた。人に向けて噴くことの怖さ? いや、別に。もっと大きな火を噴きたいと思っていた」(ベースボール・マガジン社・刊『FMW激闘史』より)

 

▲極悪魔王の代名詞・火炎噴射。それまでの火を使った攻撃など比べものにならぬビッグファイアーの衝撃たるや凄まじかった

 

WWEでリッキー“ザ・ドラゴン”スティムボートが火を噴いているのを見て、ホテルの部屋で練習したという代名詞的極悪殺法のビッグファイアー。鎌の方はもともとポーズ写真を撮る時や入場時に持ち込んでいたものの、凶器として使うまではいたっていなかった。

 

それがFMWでザ・シークに五寸釘の使い方を教わったのを機に「このままやってもシークのものだから」とオリジナリティーを出すべく導入。その過剰さは、誌面を通じて伝える我々にも多大なる影響を及ぼした。それまでは既成の価値観の範ちゅうで記事を書けばよかったが、FMWのデスマッチがエスカレートするごとに前例のないシチュエーションが題材として目の前にドン!と置かれる。

どこまで書いていいのか、あるいはどういう表現なら許されるのか。一般的に、人間へ向かって火炎を浴びせるなどとんでもない行為であり、それまでの“プロレス内世間”の常識に照らし合わせたら「あんなのは…」となる。

だが、過剰な表現によって万人へ伝わることにこそポーゴさんは価値を置いている。それが従来のプロレスに当てはまるか否かなど知ったこっちゃないのだ。

 

最初は、プロレスラーを“極悪人”と表現するにもためらいがあった。それでも凶器…いや、武器を開発し大仁田や松永を血祭りにあげるたびに見合った表現はと考えるうち、前述したようなフレーズが生み出されていった。リング上の蛮行だけではない、ポーゴさんはコメントやネーミングに関しても細部に渡るまでこだわった。

「凶器じゃねえ、武器と呼べ!」にかぎらず、そこへ「ヤマタノオロチ」というおどろおどろしい名称をつけ、武器を製造する秘密の基地を「ムジナの穴」と呼ぶセンス。何かの拍子で「100万年はえーんだ!」とコメントすると以後も決めゼリフとし、そこからさらに「100万光年はえーんだ!」へとVer.アップ。

光年は時間ではなく距離を表す単位だろうと誰もが突っ込んだが、そんな整合性よりも字ヅラのインパクトと“響き”を優先するのがポーゴ流だった。こうした例をあげると枚挙にいとまがない。このアレンジ編としては地元・伊勢崎でカンフー・リー(グレート小鹿がテキサス修行時代のキャラクターを一夜復活させる)を半殺しにしたあと「俺様はな、この伊勢崎暗黒街では救急車を100万台呼ぶことだってできるんだ! いいか、カンフー・リー。まだこの俺様とやるというなら、今度は救急車100万台を呼んでおまえを病院送りにしてやるから、覚悟しておけ!」とうそぶいた事例がある。

たった一人の人間を運ぶのだから残りの99万9999台分は必要ないのだが、重要なのは地元においてそれほどまでの権力を極悪大魔王が持っているという主張が伝わること。W★ING同盟の海合宿を張れば砂浜でジープを走らせては配下の選手たちを追いかけ「もっと全力で走れ! チンタラ走ってたらひき殺して海に投げ込み鮫のエサにするぞ!!」と凄む。

おそらくハンドルをサバきながら、頭の中では誌面に載った時の絵がちゃんと描かれていたのだろう。1994年10月25日、神宮プールにおける水中機雷爆破デスマッチでは、ミスター雁之助に道連れとされプールの中へ飛び込み心中。失神したまま控室へ運ばれザ・グラジエーターがお腹を押すと、ピューッと口から水を噴き出すことも忘れなかった。

 

1991年5月6日、大阪・万博お祭り広場における史上初の地雷爆破デスマッチで大仁田に敗れたミスター・ポーゴは、ビクター・キニョネス率いるプエルトリコ軍団(略してプ軍)の血の掟に従い、追放扱いされた。後日、爆破のダメージにより頭や手脚に包帯を巻き、松葉杖姿で会見へ。

 

▲90年代インディーシーンにて一時代を築いたポーゴ&ビクターの名コンビ

 

プ軍に対し「恐ろしい…恐ろしすぎる。怖いよ~っ!」と、極悪魔王の名をほしいままにする男とは思えぬ脅えっぷりを晒し、火傷で体が火照るといって用意された水をひっきりなしに飲んだ。プ軍に戻ったら殺されるとの理由で、ポーゴさんはFMWに助けを求めた。

ところがこれは大仁田を油断させる罠で、数日後のシリーズ開幕戦・大宮スケートセンターでビッグファイアーを放ち急襲。思えばこれが、火炎攻撃初公開だった。あっさりプ軍に寝返ったあと、会見の模様を報じた週プロを見ながら取材した時のことだった。

「すいません、カッコ悪い写真を載せてしまって…」とこちらから切り出す。じつはそのグラビアの大写真を見ると、ポーゴさんの鼻毛が写り込んでいた。

自分が担当したページではなかったが、極悪魔王なのに鼻毛はいただけないとなる。「なんであんな写真を使ったんだよ!」と叱られるのを覚悟したのだが、ポーゴさんはこう言った。

「えっ? あれはあれでいいんだよ。鼻毛を切るまで気がいかないところまで追い詰められていたのが伝わるじゃない。それで俺様は抜かなかったんだから」

これが恥ずかしさをごまかすためのあとづけだったのかはわからない。しかし、言葉通りだとしたら大仁田を欺くだけでなく、そこでもポーゴさんはより伝わるべく鼻毛にいたるまで意識していたことになる。

また、こんなこともあった。ポーゴ大王がグレート・ニタによってキリキリ舞いとされたあと「こうなったら、もっと凄いやつを連れてくる! 大…大・ポーゴ大王だ!!」と宣言。おそらくその場の思いつきで出たのだろうが、なんともプリミティブなネーミングが世のポーゴメイニアの琴線を激しく揺さぶった。

ただ、カッコいいか悪いかといったらお世辞にもカッコいいとはならない。そこで「大・ポーゴ大王を英語表記にしてグレート・キング・ポーゴにしたらどうですか?」と振ってみた。じっさい、そのフレーズは誌面の見出しでも使用されていた。

でもポーゴさんは「何ぃ? テメーキサマ! そんなカッコいい名前じゃダメだろ! それじゃあ『へー、そういう名前なのか』で終わっちまう。印象に残るようにベタな名前にしたんだから、変えないからな。わかったら出てけーっ!!」と、ここでも伝わることの重要性を熱弁。

選手名鑑用取材で“好きな食べ物”を聞くと一度は「寿司!」と答えながら「いやいや待て。特上寿司!」と変え、ウエートがオーバー気味になった年は質素な食生活をアピールするべく「百円寿司に変えてくれ」と誰もそこまで気にしないのに、ここでも細かいディテールにこだわった。武器を振りかざし、火を噴いて好き放題暴れているだけのようで、本当は繊細な意識を持っていたのがポーゴさんだった。

FMW~W★INGにおいて、ポーゴさんはディテールの重要性と向き合う機会を記者に与えてくれた。伝える立場の人間としてもっとも吸収できた年齢の頃にあのプロレスを前線で追いかけることができたのは、本当に大きかったと思う。

今現在も、原稿の中に点在する言い回しの中でミスター・ポーゴが根源となっているものは多くある。師と仰ぐデスマッチファイターには及びもつかぬが、極悪魔王のいた風景こそが私にとっての学び舎のひとつだった。

明日はもっともっとポーゴさんとのつながりが深かった、金村キンタローに語っていただく。イベントを始める前、お集まりいただいたW★INGフリークスの皆様と黙とうする時間を設けるよう、茨城さんに言いました。個人的なお悔やみの言葉は、その時に捧げたく思っています。

 

追記:これまで「追悼文」に関しては、個人の感情よりも故人の人柄や功績をより多くの方々に伝えるべく書いてきました。それが求められるものであり、伝える立場にある者としての使命と思ってまいりましたが「とても追悼記事とは思えない」とのご指摘がありましたので、タイトルより「極悪大魔王への追悼文――」の箇所を削除させていただきました。申し訳ございません。

 

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