[紫式部コラム] 02:夫・藤原宣孝に対する想い | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


源氏物語は、最初は亡き夫のとの楽しく充実した日々を思い出し、亡くなった寂しさを埋めるために書き始めた。
これは、ドラマ『光る君へ』を見始めるまではあまり考えませんでした。


そして源融が建立した河原院を『六条院』のモデルとしたのも、様々な想いがあったからかもしれないと思い始めています。



「みし人の 煙になりし夕べより なぞむつまじき しほがま(塩竈)の浦」
(訳:親しかったあの人[夫・藤原宣孝]が、(火葬で)煙となって消えてしまった夕方以降、「睦まじ」という音に通う「陸奥(むつ)」の国の「塩竈の浦」でたなびく、塩焼きの煙までもが慕わしく感じらようになりました。)
こんな和歌を作ったと良く紹介されますね。睦まじい(仲が良い)と陸奥の国(東北地方)を掛けていて、そして平安京で塩竈と関連深い「源融の河原院」に結び付けているところはさすがです。

 




源融ですが、以前赴任していた塩竈付近(現在の宮城県多賀城市)のことを懐かしんで河原院で塩焼きをしていました。その名残として本塩竃町という町名が京都に残っていまるんですね。

 




光る君への第三回で源倫子のサロンを訪れたまひろ(紫式部)に対して言った「和歌をそのまま真似るのでなく、自分の心情を込めて作りなさい」という部分とその前に貴族の子弟たちの勉強会で出てきた孟子の「人皆有不忍人之心(孟子曰わく、人皆、人に忍びざるの心あり)」の一節にはすごく深い意味があったんですね。それは、紫式部が亡き夫のために作った和歌は、古今和歌集には紀貫之が源融の死を悲しみんだ記述が元となっているでしょうから。

 



<古今和歌集にある紀貫之の和歌他>
河原の左の大臣の身まかりて後、かの家にまかりてありけるに、塩竈といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
[和歌] 君まさで 煙たえにし 塩竈の うらさびしくも 見えわたるかな
【訳:河原の左大臣がお亡くなりになって後に、その家に来まして佇んでいた時、その庭が塩竈という所を再現していましたのを見て詠んだ歌
君がお亡くなりになって、塩を焼く煙も絶えてしまったこの塩竈の浦が、うらさびしくも見渡されることですよ】


あと宮城県塩釜市にある「鹽竈神社(塩釜神社)」の祭神について注目するとちょっと面白いことに気が付きました。

 

 



<鹽竈神社の祭神>
◎塩土老翁神(しおつちおじ)
潮流を司る神&航海の神で、一条天皇に「紫式部は、日本書紀を物語にうまく反映させている」と言わせた『海彦山彦の物語』『日本書紀の神武天皇の神武東征の記述』『神功皇后の三韓征伐』とも深い関係がある神様
◎武甕槌神(たけみかづち)
紫式部が氏神とあがめている春日大社にも祭られている
◎経津主神(ふつぬしのかみ)
紫式部が氏神とあがめている春日大社にも祭られている



特に塩土老翁神に関する『神功皇后の三韓征伐』の話関連については、紫式部の夫・藤原宣孝が990年に筑前守(現在の福岡県の大部分の当たる筑前国の役人)だったことやや998年に宇佐神宮の奉幣使(ほうへいし)にも任命され訪れた時の話を聞いていたと思われるの面白そうです。

※写真は神戸市の三石神社にある神功皇后の銅像。



光源氏のモデルとしては藤原道長・源融があげられますが、紫式部が・藤原宣孝が亡くなったことの悲しみを紛らすために源氏物語を書き始めたとすると、根底には『光源氏は藤原宣孝』という想いがあって、書き続けたのでしょうね。



そんなことも考えながら今年一年は京都をはじめとして源氏物語&紫式部関連の場所などを巡っていきたいと思います。もしかしたら月1回以上は京都を訪れてるかもしれませんが・・・