[宮城県多賀城市] 多賀城跡 | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


奈良時代の日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点としていました。 


多賀城は724年(神亀元年)に大野東人によって創建され、陸奥国府と鎮守府が置かれた場所。



約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。




◆多賀城の年表◆


◎724年に大野東人によって創建。
◎762年に藤原朝狩によって大規模に修造。



◎802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
◎ 869年に 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、地震被害とともに城下は津波によって被災し、溺死者を千人ばかり出している。
※東日本大震災と貞観地震は同じ規模くらいと言われていますね。ただ、869年の地震の教訓は東日本大震災では生かされなかったともいわれています。

◎11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能。



◇政庁正殿跡◇

 




◆政庁南門跡◆

 





★多賀城跡の紹介ページ★

 


<多賀城跡の基本情報>
見学時間:自由見学
見学料 :無料
駐車場 :20台(無料)
住所  :宮城県多賀城市市川




☆陸奥按察使としての源融☆

陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職である。しばしば陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち、みちのくいではのあぜち)とも言われた。720年頃に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督しましたた。源氏物語の光源氏のモデルと言われる『源融 (みなもととおる)』は864年(貞観6年)3月8日より任務に就き、869年(貞観11年)1月13日に任務を解かれ京に帰っています。
※陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震・貞観地震は、869年(貞観11年)5月26日に発生しています。万が一その時も『源融』が多賀城に居たら、源氏物語はどうなったんでしょうね?