◆ 「大美和」 第147号






尾張国の大神神社の記事を上げたばかりでややこしくなっていますが…

こちらは大和国城上郡の大神神社
全国総本社です。



大神神社が講社崇敬会会員等向けに
年2回発行される「大美和」。

今号で147号目。
70年余り続いているもの。

神職たちの大神を奉斎する
「篤い」「熱い」お気持ちがダイレクトに伝わってくる小冊子。

並々ならぬ熱意を持って発行に及んでおられるご姿勢が垣間見られます。この書を頂けるだけでも講社崇敬会会員である価値はあると。

今年はコロナ禍による例祭の縮小開催を解除し、一般参列者を受け入れて行われるようになりました。
表紙の神輿渡御も5年ぶりとのこと。冊子内にはその様子が多く写されています。当日は参列できませんでしたが…。

今回の寄稿の中から一つだけ。
他はあまり関心を持つものがなかった…。



「三輪山セミナー」の講演からのものです。
個人的に関心度の高いテーマなので、細部に至るまで取り上げます。少々長くなりますが、最後までお付き合い頂ける方がありましたらさいわいです。


(著作権の問題があるためモザイクを入れております)



「ミワ」と「酒」と。

これはもう神テーマ!
「三輪の大神」と「酒」とは切っても切れないもの。いずれは掲載されるものなのでしょうが。


講演の先生は「風土記」研究が専門とのこと。
各国「風土記」にも登場する、「酒」にまつわる話と絡ませたり、対比させたりと新しい視点から論じられています。



◎「御酒(ミワ)」・「三勾(ミワ)」・「味酒(うまさけ)

記紀や万葉集、その他文献等に「三輪」に関して上の三つの伝説が記されています。ところがいきなり「播磨国風土記」の引用から。

穴禾郡(しさはのこほり)の条
━━伊和の村。本の名は神酒(みわ)なり。大神、酒(みわ)を此の村に醸み(かみ)たまひき。故(かれ)、神酒(みわ)の村と曰ひき━━

現在の宍粟市(しそうし)伊和神社がある一宮町の伝説。「伊和村」は「神酒(みわ)」からの転訛であるとしています。「神酒」と書いて「ミワ」と呼ぶことはすでに地方まで及んでいたことが分かります。

崇神天皇紀八年十二月の条
━━天皇(すめらみこと)、大田田根子を以ちて大神(おおみわ)を祭らしめたまふ。是の日、活日(イクヒ)自ら神酒を挙げ(ささげ)、天皇に献る━━

「神酒」の訓みは古い写本では「みわ」とし、新しいものは「みき」としているとのこと。
この説話は崇神天皇七年二月に始まった疫病の大流行に対して、原因追究(占い)とお祭りの後、十一月に大田田根子を見つけて大物主神の神主とすることで収まったと記されています。そして高橋村の活日という人物が、大物主神の「掌酒(さかびと)」に任じられたと。


[大和国城上郡] 活日神社(大神神社 境内摂社)



万葉集 巻二 二〇二
━━泣沢の 神社(もり)に三輪据ゑ 祈れども
我が大君は 高日知らしむ━━

天武天皇皇子の高市皇子が亡くなった時の挽歌で、作者は檜隈女王(高市皇子の娘)ではないかとされる歌。「泣沢の神社」は畝尾都多本神社
「三輪」について「小学舘本読み下し文」では、「神酒」の文字が宛てられています。

「神酒」について解釈が2通り。
*「酒を供えた」という説
*「酒を入れる器を供えた」という説

万葉集 巻十三 三二二九
━━斎串(いぐし)立て 神酒(みわ)据ゑ奉る
神主の うずの玉陰 見ればともしも━━

こちらも「酒」とする説と、「器」とする説の2通りがあるとのこと。


[大和国十市郡] 畝尾都多本神社



記 中巻 崇神天皇条 「三輪山伝説」
活玉依毗売(意富多々泥古の母)が夜半に訪れる壮夫の子を懐妊。男の正体を知ろうと父母が、姫に麻糸の着いた針を男の衣に着けるよう促す。
━━「赤土(はに)もちて床の前に散らし、へその紡麻(うみあさ)もちて針に貫き、その衣の襴(すそ)に刺せ」故、教への如くして、旦時(あした)に見れば、針箸けたる(つけたる)(を)は、戸の鉤穴(かぎあな)より控き(ひき)通り出でて、たた遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。しかしてすなわち、鉤穴よりい出でし状(かたち)を知りて、糸のまにまに尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。かれ、それ神の子とは知りぬ。かれ、その麻の三勾(みわ)遺りしによりて、そこを名けて、美和といふ━━

結局残ったのは三勾(三巻き)の糸だけであったということですが、「美和山」の神の社に至ることから神(大物主神)であることが分かり、また「三勾」という形から「蛇」が連想されます。ここでは不思議なことに「酒」が一切登場しません。

赤糸(三勾の糸)を埋めたという伝承地「苧環塚(おだまきつか)




崇神天皇紀八年十二月条
━━此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門━━

「味酒」が「三輪」にかかる枕詞となっています。

万葉集 巻一 十七
━━味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(は)に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ(さけむ)山を 心なく 雲の 隠さふべしや━━

こちらも「味酒」が「三輪」にかかる枕詞となっています。

「酒」と「ミワ」について、江戸時代の国学者 契沖が「厚顔抄」で論じています。
━━神ニ奉ル酒ヲミワト云故ニ、味酒ノミワトツヽケタリ、和名集云、日本紀私記云、神酒、和語云美和、神酒ト三輪ト同シ和語ナル故ニ、神酒ヲ仮テ三輪トツヽケタル欤、初テ酒ヲ作テ三輪ノ神ヲ祭リ初ル故ニ、三輪ヲ以テ神酒ニ名付ケタル欤━━

神に奉る酒を「ミワ」と言うから「味酒の三輪」となっていると。さらに詳しく「神酒(ミワ)」と「三輪」が同音異義語であるとも指摘。同音の縁で「三輪」に続いている、或いは初めて「神酒」を作って三輪の神を祭った、その出来事に因むのではないかとしています。

「酒を入れる器」とする説を提唱したのは、明治の飯田武郷氏「日本書紀通釋」巻之十三。
━━美伎は御酒にて。其物を云ひ。美和は御𤭖(ミワ)にて。其器を云が。即其物名にも通はし云事なめり━━

西宮一民氏(元皇學館大學学長、国文学者)は、「神酒を入れる器の名称だったものが、神酒そのものを指すようになったのである」としているとのこと。

続いて「味酒」が「三輪」に掛かるのかについて。

「時代別国語大辞典 上代編」(三省堂)
━━味酒(ウマサケ)と神酒(ミワ)とが同義であるところから、神酒と同音の地名三輪にかかる━━

「万葉ことば事典」(大和書房)
━━枕詞ウマサケは、味酒(ウマサケ)を神酒(ミワ)として神に供えることから、神体山でさらに神酒と同音の三輪の山に対して用いられ、それが神にかかわる類語にまで転用されたと推定される━━

大神神社の杉玉




講演者の橋本雅之氏は、「酒を入れる器を供えた」よりも「酒を供えた」の方が用例が多いことから、そちらを支持しているとし、さらに専門分野の風土記からの視点を持ち込みます。

「播磨国風土記」託賀郡荒田村の地名起源説話
━━荒田と号けし(なづけし)所以は、此処に在す神、名は道主日女命、父无くして(なくして)児を生みたまひき。盟酒(うけひさけ)を醸まむと為て、田七町(たなどころ)を作りしに、七日七夜の間に、稲成熟り(みのり)竟はり(おはり)ぬ。酒を醸みて諸(もろもろ)の神を集へ、其の子を遣りて、酒を捧げて養はしめき。是に、其の子、天目一命に向きて奉り、其の父と知りき…(以下略)━━


これまで当ブログ内でたびたび引用している箇所。正体不明の父親が天目一命であったと判明した説話です。

ここで重要なのが、「盟酒」という占いに使う酒が作られたということ。酒を以て父親を探し出すという伝説。

「山城国風土記」逸文 賀茂社縁起
━━(賀茂建角命の子)玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びする時、丹塗矢、川上より流れ下る。すなはち取りて床の辺に挿し置きき。つひに孕み、男子を生みき。人となる時に至り、外祖父(おほぢ)建角身命、八尋屋(やひろや)を造り、八戸(やへ)の扉を竪てき。八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊(うたげ)しき。しかるに子と語りて曰く「汝の父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ」といひき。すなはち、酒杯を挙げ、天に向かひ祭らむとし、屋の甍(いらか)を分け穿ちて(うがちて)天に升り(のぼり)き。すなはち外祖父の名により、可茂の別雷命と号け(なづけ)き━━

川上から流れてきた丹塗矢を取り、床に立て掛けて置いておくと懐妊してしまいます。父親が不明なため酒を以て探し出そうという説話。八尋殿を造り宴を開き神々を集めます。そして子に父親と思う人に酒を飲ませよと言うと、天井を突き破り天に昇って行った。それで可茂の別雷命と名付けたとしています。

「三輪山」伝説、「播磨国風土記」の伝説とは異なる点が多いものの、「父親が誰か分からない」、そして「酒を 以て探し出す」という点で一致しています。

次に「盟酒(うけひさけ)」について。
「ウケヒ」とは古代の卜占の一種。

「日本神話事典」多田みや子執筆
━━神祭りにも酒は必需品であり、神と人との交流に、つまり神意を 知るのに用いられたのである。同時に酒自体が神のもたらしたものとして認識されていた━━

「神」と「酒」、「祭り」と「酒」は切っても切れないもの。また「酒」は「神」がもたらしたもの。「盟酒」は神意を知るための特別な「神酒(ミワ)」であったと言えます。

ところが記のみが「酒」は出ず「糸巻き」のみ。懐妊させた男神を探すのに、糸が三巻き残ったとする他の伝説には無い形。

橋本雅之氏は、「三輪山」伝説においても酒を献げて男神を特定するパターンがあったのではないかとしています。その方が糸巻きが残ったというよりも、話が明快になるとも。
これらは風土記から「三輪山」を見てみたことによるもの。ただし、なぜ記に「酒」が記されなかったのかまでには触れておられないですが…。




「神酒」」について、「酒を入れる器を 供える」という説があることを初めて知りました。大変恥ずかしながら…。

そして「酒を入れる器」とは「須恵器」のこと。従前の弥生式土器では、器に液体が滲み、漏れることもあったのが、「須恵器」はそのようなことが無い。正に「酒を入れる器」として重宝されたのが「須恵器」。

先日、陶津耳命の神名記事を上げ、それを再認識したところ。また娘の活玉依姫は、原「三輪族」による政略結婚として大物主神の妻の一人になったと考えが及びました。そして子の大田田根子が大物主神を祀る初代神主に任じられました。

大物主神については、殊に最近、思うことがあり、近々どこかの記事で触れようと考えています。

軽くネタばらしをするなら…
史上最強断トツの「祟り神」なのではないかと。



長々とした記事に最後までお付き合い頂きありがとうございました。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。