彌尼布理神社
(みねふりじんじゃ)
伊勢国奄藝郡
三重県津市河芸町北黒田2250
(駐車は下部写真)
■延喜式神名帳
彌尼布理神社の比定社
■旧社格
郷社
■祭神
倉稲魂命
津市の最北端、河芸町(かわげちょう)「北黒田」の北端に鎮座する社。鈴鹿山脈の東側麓、丘陵尾根に社殿が設けられ、広大な神域を有しています。現在は付近に人家はまったく見当たりません。通称は「いねふりさん」。
◎社頭案内には、大同元年(806年)六月に東海道観察使により創建されたとあります。創建以来五十年毎に造営・祭礼が行われ、その度に五穀豊穣し、住民は窮乏や悪疫から免れたと。
◎桓武天皇の御代、国司の過剰な税徴収など地方政治が腐敗。それが原因で国司の前任者と後任者との間で紛争も起こっていました。そこで天皇は延暦十六年(797年)頃に「勘解由使」を設置。これは地方政治を監査・監督する令外官。そして政治一新を図る次代の平城天皇は、大同元年(806年)に「勘解由使」を廃止し、東山道を除く六道に「観察使」を設置しました。当社創建はこれに因むものと思われます。
◎通称「いねふりさん」であり、ご祭神は倉稲魂命。原始の「稲降り」が「彌尼布理」に転訛したものと思われます。「勢陽雑記」(山中為綱、明暦二年・1656年)という書には、「三社坐します、一社は稲降、一社は春日八幡御同殿に坐します、一社はひじりの宮と号す」とあるようです。「神名帳考証」(度会延経、享保十八年・1733年)には、「山上に三神殿相並ぶ」とあります。どうやら江戸初期には同殿にて三座が奉祀され、中期には三殿になっていたことが窺えます。
また文明九年(1477年)以降の棟札には「稲振大明神」とあり、慶安三年(1650年)以降のものから「稲降大明神」というものが増えているとのこと。
◎ご祭神については「神名帳考証」が保食神、「勢陽五鈴遺響」(天保四年・1833年)が大歳神としています。いずれも穀霊神。
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車はこのように停め置きました。
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拝殿まではおよそ10分ほどの登拝道。
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まだまだ続きます。
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二の鳥居
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当日は既に20社以上拝して疲れがピーク、15分以上かかりました。
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ご本殿
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不明の石碑
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*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。