小丹神社
(おにのじんじゃ)


伊勢国安濃郡
三重県津市上浜町6-56-1
(P有)

■延喜式神名帳
小丹神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
埴安毘売命

大山祇神

[配祀] 須佐之男命 誉田別命 月夜見命


「志登茂川」と「安濃川」に挟まれた河口部丘陵地に鎮座する社。海岸までは2km足らず。
◎社伝によると創建は景行天皇の御宇とのこと。ただしその由緒はまったく示されておらず、詳細は不明。
◎地震高波により遷座が繰り返されています。原始は「安濃郡小丹郷」に鎮座していたとされます。また「大部田村」の東の海岸にあったとも。これらが同一のものなのか、また詳細地についても資料が見当たらず不明。
明応七年(1498年)の大地震により海没、「志登茂川」河口北岸の「塩屋」に遷座、以来その地を「鬼の塩屋」と言ったようです。
さらに慶安三年(1650年)に大洪水が起こり、現社地へ遷座したと伝わります。「志登茂川」はたびたび氾濫を起こすことで知られる河川。支流の「毛無川」は、二毛作ができないほど氾濫したことによる河川名と伝わります。
◎「式内社 小丹神社」の比定について、当社以外に対しての異説等は見受けられません。「五鈴遺響」(天保四年・1833年)という書には、海岸松林の中に通称浜宮という小社があり、「奉造立 小丹神社 天明八戊申年十一月吉日 安芸郡上塩ヤ村神主世古式部」記した標柱があったとしているとのこと。これを以て式内比定の事由となっているようです。
◎当社の原始の様子を窺い知る手掛かりに乏しいのが現状ですが、宝賀寿男氏(日本家系図学会会長・家系研究会会長)は興味深い説を提示しています。
氏はご祭神の埴安毘売命を紀伊国造家が奉斎した神としています。紀伊国造家とは大伴氏や久米氏等と同族、天道根命を祖とする氏族。彼らは日本列島で原始的な「焼畑農業」を営んだ「山祇族」系統であり、本来の「ムスビ(産霊)」は安牟須比命、その実体はカグツチ神(=火産霊神)であったとしています。「古屋家家譜」には安牟須比命がカグツチ神(=火産霊神)と同神であると記されます。
そして彼らの故郷を筑前国「夜須郡」(福岡県朝倉郡筑前町辺り)、つまり「筑後川」中流域の北側ではないかとしています。彼らには安牟須比命の「安」を始め、拠点とした「夜須」等が各地に見られます。もちろん埴安姫(波邇夜須毘賣神)の「安(夜須)」も。
安濃郡には埴安毘売命を祭神とする当社、またカグツチ神或いは火雷神を祭神とするのではないかと考えられる比佐豆知神社も鎮座。「古屋家家譜」に於いては、安牟須比命の次代とある多久頭魂神(天手力男神磐排別命と同神とする)の後裔に「爪工連」が見えます。「六国史」に「伊勢国安濃郡の人、右弁官史生正七位上爪工仲業に姓を安濃宿祢と賜う。神魂命の後なり」(貞観四年七月条)とあります。つまり当社や比佐豆知神社は、紀伊国造家と同族である「爪工連」が奉斎した社であろうとしています。


海没や洪水の歴史から高所に社殿が設けられたのでしょうか。





ご本殿右脇(向かって左脇)の境内社。

━━往昔 現社地ハ人家ニ隔絶シテ芝生ノ原野タリ偶々寛永年間津藩主二世祖藤堂高次公野猟ノ際 該地ニ於テ一羽ノ鶴ヲ射留ラレシニ殊勝優秀ナル鶴ナリ」とその由来が書かれている。高次がたまたま鶴を射止めたことをめでたいことの前兆であるとし鶴之宮という社殿を建て明治維新まで津藩が管理した。しかし、明治40年(1907)に小丹神社に合祀し社殿は小丹神社に移しその跡に碑を建てたと記るされている。碑は現地である上浜町一丁目の公園に現存する。
平成4年9月号市政だより写━━




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