◆ 火吹く人たちの神 ~13






但馬国は過去3度巡拝しました。

天日槍神系神社 → 海部氏系神社 → 天日槍神系 → 海部氏系の順に。

初めて訪れたのはもう10数年前のこと。

当時はまだまだ知識も浅く…

とにかく一ノ宮の出石神社を参拝するんや!
御出石神社も行っとかねば!
帰り途には播磨の伊和神社御形神社等へも!
出石蕎麦も食べねば!

そんな感じでした。

またいずれ近いうちに
出石蕎麦を食べに!

…じゃなく
出石神社等を参拝しに!



過去記事一覧を作成しました!
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第一部 青銅の神々
第一章 銅を吹く人


■ 天日槍の本拠地・但馬の伊福部神社

谷川健一氏はここまでで、
━━伊福部氏がふいごをつかさどる鍛冶(かぬち)氏族であって、銅鐸の出土地との必然的な関連が否定できにくいことがほぼ明らかとなった…━━としています。

ところがまだ二、三言いのこしていることがある…としてこの項が始まります。


但馬国一ノ宮 出石神社



◎但馬「出石」の天日槍神

但馬の「出石(いずし)」といえば天日槍神。但馬国一ノ宮の出石神社で祀られています。

天日槍神は銅鐸と最も由縁の深い渡来人集団とみなされてきているも、実証的な裏付けがまだ果たされていない…としています。



◎出石の伊福部神社

兵庫県出石郡出石町大字中村小字「伊福部」で祀られる伊福部神社。

出石神社の南方3kmほど。出石神社は二度参拝しているも、伊福部神社はまだ参拝できていません。昨年初めに、今年こそ必ず…と誓っていたのに。三年以内には必ず…としておきましょうか。



◎「伊福部大明神」と「出石大明神」

「校補但馬考」という書には、三百年位前に「出石大明神」を「伊福部」という地に勧請したから「伊福部大明神」と称するのであって、伊福部系の祖先を祀ったのではない。そして出石神社に関連する社である…とあるようです。

また大生部兵主神社(おおいくべひょうずじんじゃ)と称しているのは、もともと別の神社であったのが混同したものである…と。

谷川健一氏はもどかしさを感じておられるのだろうと察しますが、大人な対応をされてます。伊福部神社と「伊福部氏」が関係があるかどうかは今のところ問題にならない…と。

「大人な対応」ができない私から。
伊福部氏と関係があるから天日槍神を勧請してきたのでしょうし、「大生部兵主神社」の「イクベ」は「イフクベ」のことでしょう。

言ってやったった!(笑)

伊福部神社が伊福部氏と関係があろうがなかろうが、この地に「伊福部」という地名が存在することが重要であるとする谷川健一氏。地名がある限り鍛冶氏族としての「伊福部氏」がいたからであろうと。

「大字中村」の近くには「鍛冶屋」という地名も。伊福部神社は「鍛冶屋」集落からも氏神となっているとのこと。

「但馬世継記」という書(偽書説が有力)には、「伊福部神社は伊福部宿禰の祖 天香山命を祀る 伊福部宿禰は鋳物師の祖なり」と記されるようです。

伊福部神社の奥には「畑」という山村があり、そこの「鍛冶谷」には「福田鍛冶」を称する家があり、鍛冶屋の屋敷跡と言われ、今もまつりを行っているとのこと(現在も存在するのか不明)

この「鍛冶谷」の眼前には「床之尾山」(「東床尾山」・「西床尾山」)。別名「鉄鈷山(かなとこやま)」。それに続く「朝日金山」(朝日鉱山、糸井鉱山)と、「伊福部」の地に鉱山も近いと。

この地は天日槍神の本拠地である「出石」の一角。但馬地方の伝承に、「円山川(まるやまがわ)」河口の瀬戸を切り開いた天日槍神が使用した「鑿(のみ)」は、「鉄鈷山」の鉄を「畑」集落で鍛えられたとされているようです。谷川健一氏は背後に伊福部氏が…と睨んでいます。

ちょうど!たまたま!偶然にも!
【丹後の原像】第83回目の記事にて銅鐸の出土地を、つい先日確認作業をしたばかり。併せて但馬国の古代の概況を大雑把に整理確認したばかり。
本書では触れられていない、最新の銅鐸出土地を盛り込んで地図に落とし込んでおきます。

久斗寸兵主神社は「久田谷銅鐸」の位置を示したところのわずかに南東。



◎「気多軍団」

「出石町」の西方には日高町「伊府(いふ)」という地があります。そしてこちらには「伊福八幡宮」があるとしています(検索するも発見できていません)。場所は国府があった辺りであると(下部地図参照)。「伊福部氏」の痕跡が窺えます。

さらに「続日本後記」の記述を持ち出してこられました。「仁明天皇 承和七年(840年)五月、気多郡(けたのこほり)兵庫の鼓 自ら鳴る」と。

そして谷川健一氏は、
━━日高町「久斗(くと)」に鎮座する久斗寸兵主神社(くとむらひょうずじんじゃ)が、「気多軍団」の兵器の鎮守であったらしい━━と。

「気多軍団」て…
またドえらいもんをぶっ込んできはったな…。

私にとって谷川健一氏は「神」が如くの存在。おっしゃられることは、すべて「神のお告げ」が如くのもの。
ところが…これを持ち出してこられた以上は黙ってはおられない!反論するつもりなど毛頭無いが、事はそう単純ではない!

「軍団」とは地方の常備軍のようなもので、律令制の始まる前、7世紀末頃には既に成立していたと思われます。

但馬国では「気多軍団」と「養父(やぶ)軍団」が強力であったとみられ、彼らは在地有力者が任命された郡司のもと統制されていました。

この「気多軍団」は但馬国気多郡にあったわけですが、それは「円山川」中流域。久斗寸兵主神社は「気多軍団」の兵庫(武器庫)だったのでしょう。国府推定地から久斗寸兵主神社辺りにかけてが中心地であったように思われます。

実は「円山川」の本流の流域には、天日槍神の痕跡があまり多くはないのです。支流の「出石川」流域に集中しています。

「円山川」上流域は「養父軍団」、中流域は「気多軍団」が勢力を張りました。河口は海部直が勢力を。上に記した「天日槍神が河口の瀬戸を切り開いた…」というのも、海部直の御子である西刀宿禰(セトノスクネ)が開拓したという伝承も(→ 西刀神社)。海部直とは親戚的な関係にはありますが。

久斗寸兵主神社のすぐ近くで「久田谷銅鐸」が出土していることから、「伊福部氏」が拠点としていたことは間違いないのでしょう。
おそらくそれらの勢力の台頭により、天日槍神や「伊福部氏」のあらゆる痕跡が上書きされていったものと考えます。

ですから天日槍神や「伊福部氏」の話の中に「気多軍団」を持ち出してくるのは、問題があるのではないかと思うのです。

このような知識を付けられたのはまだ最近のこと。それまではさらさらっと読み流していましたね…。




◎伊福部氏は出雲へ?

これもまた偶然ですが、谷川健一氏は「気多軍団」の話を載せた後、伊福部氏の出雲での痕跡を記しています。

文武帝(697~707年)あるいは聖武帝(724~749年)の奈良時代前後に、出雲国の出雲郡と神戸郡に移住していたことが明らかであると。

出雲郡は「宍道湖(しんじこ)」の西側、杵築大社(出雲大社)が鎮座するところ。神戸郡はさらにその西側。

「斐伊川」と「神戸川」に挟まれた流域で、出雲市を中心とした箇所、「斐伊川」の上流または中流は砂鉄の産地で…と谷川健一氏はしていますが…

ちょっと待った!
「斐伊川」は江戸時代に河川の付け替えが行われており、現在とは流路が異なります。かつては出雲郡の真ん中を流れていたはず。

ま…「斐伊川」河口に変わりはないので、ここでは問題とはならないですが…
古代の出雲を考える上では、絶対に必要不可欠な事。谷川健一氏はこれを知らない?それはそれで問題ですが…。

余談を挟みました。

何を根拠に「伊福部氏」が出雲へ移住したのか示されていないので分かりかねますが…なぜ文武帝と聖武帝の間の、元正帝・元明帝を飛ばしているのか分かりかねますが…

「気多軍団」が成立したであろう7世紀末頃までには、既に但馬から移住しており、吉備あるいは因幡辺りへ移住していたのではないかと。そしてさらに出雲へと拠点を移したのであろうと考えます。

そのように考えると、かつて「伊福部氏」が拠点としていた地に、「気多軍団」が勢力を張ったという大きな歴史の流れが浮かび上がってきます。

その移住してきた出雲の「西林木」には式内社 意布伎神社が鎮座していました。現在は伊努神社に合祀されているとのこと。
また西方5kmほどには阿須伎神社が鎮座。こちらはアヂスキタカヒコネ神を祀っています。「鉄器を人格化した神」と表現しています。「耜(すき)」を人格化したということでしょう。「伊福部氏」との関係を想定しています。




◎雷神の従者「富部」

谷川健一氏が最後に言い残したこととして、雷神の従者「富部」のことを挙げています。

柳田国男氏の「雷神信仰の変遷」という書の中で、天神=雷神の従者に「富部」という小童のあることを述べているようです。

近代の末社では「富部」と言う代わりに「福部」と称しており、最初から「トミベ」とは呼ばなかったと。
この「福部」は「瓢(ふくべ)」の神で、水の災いを代表するのではないかとしているようです。

これに対して谷川健一氏は、雷神と小童の関係を考えると、「福部」は「伊福部」のことを指しているようにも思われる…としています。

雷神については次回、小童についてはその次に、両者を絡み合わせながらの記事となります。



というわけで
今回はここまでにて。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。