☆ 顕宗天皇皇后 難波小野女王 陵西陵墓参考地 (狐井塚古墳)
(ケンゾウテンノウ皇后 なにわのおののみこ)(きついづかこふん)


大和国葛下郡
奈良県大和高田市池田
(P無し、近隣停め置き不可)



■形状
前方後円墳(周濠有り)
■全長
75m
■築造時期
古墳時代中期後半(5世紀後半頃)
■埋葬施設
(不明)
同じ「池田」集落内の仏教施設に、「竜山石」製の長持形石棺の蓋を利用した石棺仏があり、当古墳のものではないかとされる
■出土品
円筒埴輪・象形埴輪
■周辺の状況
*「馬見丘陵」の南側、平地に築かれた古墳。「馬見古墳群」の「南群」に属する
*陪塚が5基確認されている
*北側200mほどに「磐園陵墓参考地」(現在記事改定作業中、リンクに飛びません)がある

■被葬者
顕宗天皇皇后の難波小野女王ではないかとされる、また顕宗天皇そのものとする説もあり



第23代顕宗天皇皇后の難波小野女王の御陵ではないかとされる参考地。宮内庁管轄。

暴君であったと描かれ、周辺の有力者を次々と殺害し即位した第21代雄略天皇。顕宗天皇(弘計王)の父である市辺押磐皇子も殺され、身の危険を察して兄の億計王(後の仁賢天皇)とともに丹後へ隠棲、さらに移った播磨で発見され大和へ引き戻されました。弟の弘計王が先に顕宗天皇として即位しています。

その顕宗天皇の皇后となったのが、雄略天皇の孫である難波小野女王。

顕宗天皇の治定墓は西6kmほどの傍丘磐坏丘南陵。ところが真の御陵は、当地より北200mほどの「磐園陵墓参考地」(現在記事改定作業中、リンクに飛びません)ともされています。それが事実なら寄り添うように築かれた当古墳は、難波小野女王の可能性が非常に高くなります。

難波小野女王が崩御したのは、第24代仁賢天皇二年(489年)とされており、当古墳の築造時期と合致します。

なお難波小野女王の父は磐城皇子とされますが、現在の「磐城」の地は南西3km辺り。

当古墳の石棺ではないかとされるのが、近隣の仏教施設で利用されている長持形石棺の蓋。
その長持形石棺は、葛城氏との深い繋がりがある者のみ使用がゆるされた(大王を含む)とする説があります。葛下郡、さらに葛上郡や廣瀬郡に渡り広域に葛城氏が支配していました。

顕宗天皇(弘計王)・仁賢天皇(億計王)の母は、葛城蟻臣(葛城襲津彦の孫)の娘の荑媛(ハエヒメ)。そもそも雄略天皇の母(仁徳天皇皇后)は磐之媛であり、葛城襲津彦の娘。雄略天皇の妃である韓も葛城襲津彦の娘。
当時葛城氏は皇室に次々と后妃を送り込み、確固たる地域を築いていました。直木孝次郎氏は「大王と葛城氏の両頭政権」と表現しています。



*画像はWikiより
*築造年代は当方にて追加


後円部、南西端 (冒頭写真は北側より)


南側から。住宅密集地内の巨大な古墳であるため、全容を写すことは叶いません。

前方部、北東隅から。

前方部

前方部、南東隅にも墓標が立てられています。

北側から。

後円部、北西隅。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。