玄界灘に面して屹立する「湊の立神岩」(佐賀県唐津市湊町) *フリー画像より







◆ 土蜘蛛 二十二顧 (「肥前国風土記」~3)







「肥前国風土記」は「土蜘蛛」の宝庫!

まだまだ続きます。




小城市から仰ぐ霊峰「天山(てんざん)」
*画像はWikiより



■ 小城郡

冒頭に「小城郡(をきのこほり)」の地名説話が記され、そこに「土蜘蛛」所以であると記されています。郡域は現在の佐賀県「小城市」「多久市」や「佐賀市」の西側一部。

━━昔、この村には土蜘蛛がおり、堡(をき、=砦のこと)を造り隠れ棲み、天皇に従わなかった。そこで日本武尊が巡幸した時に、悉くこれを誅した。これにより小城郡と名付けられた━━

淡々と「土蜘蛛」討伐の様子が語られています。紀によると日本武尊は、景行天皇二十七年十二月に「熊襲国」にて、「熊襲梟帥(クマソタケル)」を誅したとあります。

記にも「熊曽建(=熊襲梟帥)」を誅したことが語られていますが、記紀ともに日本武尊の西征は「熊襲国」平定の記述のみ、周辺国での動向は記されていません。



■ 松浦郡(まつらのこほり)「賀周(かす)の里」

少々気になる名前の「土蜘蛛」が登場します。「松浦郡」は肥前国の北部、「唐津市」を中心に日本海側一帯の地域。
「魏志倭人伝」の「末盧國」であろうとされる地。ほぼほぼ確定的な様相ですが。

*「末盧國」
佐賀には何も無くて「悲しいSAGA(性)」…などと10年以上も前に歌った芸人がいましたが…
実は古代日本の歴史に取り憑かれた者たちにとって佐賀は、垂涎だらだら~(笑)ものの憧憬地なのです。

「魏志倭人伝」の読み下し文と大意を記しておきます(Wikiより引用)。

━━四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居り、草木茂盛して行くに前人を見ず、好んで漁鰒(ぎょふく)を捕らえるに、水深浅となく、皆沈没して之を取る━━ 
【大意】先に行く人が見えないほどに生い茂った葦原を掻き分けて進んだ。そして住民は海人として魚や鰒(あわび)を捕っていた。

脱線し過ぎない程度に触れておきます。

・「桜馬場遺跡」
末盧国王墓を想起させる出土品。
・「菜畑遺跡」
「日本最古の稲作遺跡」を伴う集落跡。縄文後期の水路や堰、矢板跡などが確認。
・「宇木汲田(うきくんでん)遺跡」
稲作が縄文時代に遡るとされるきっかけとなった遺跡。貝塚や甕棺墓、多鈕細文鏡、銅剣・銅戈など国の重要文化財多数。

景行天皇や日本武尊といった時代は、邪馬台国から50~100年かそこらほどの差。

これを踏まえて…「肥前国風土記」を。

━━昔、この里に海松橿媛(ミルカシヒメ)という「土蜘蛛」がいた。纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)がこの国を巡った時、従者の大屋田子(オオヤタコ)を遣わせて誅滅させた。その時に霞で四方が見えなくなっていたので、これにより「霞里(かすみのさと)」と呼ばれるようになり、今は訛って「賀周里」といわれている━━

海松橿媛(ミルカシヒメ)という名の「土蜘蛛」が記されます。詳細は記述無く不明。

「海松」とは海藻の「海松(ミル)」のことでしょうか。或いはその「海松」を食べる「海松貝(ミル貝)」のことでしょうか。

「橿」は西洋などでは神聖な木として知られますが、古代日本ではあまりそういった印象は持っていません。材質の硬さから槍の柄や建築物の柱として使われていたようですが。

大屋田子については、宝賀寿男氏は「古樹紀之房間」の中で、「大彦命の孫(武渟川別命の子)と称するが、実際には火国造の祖・建緒組命の子」としています。

建緒組命の出自は不明。多氏系とするなど諸説あり。また初代火国造についても、建緒組命以外に諸説あります。
(詳細は → 「阿蘇ピンク石」 ~(15)にて)

「賀周の里」について、松浦郡辺りを集中的に地図上で探してみたり、古文献等を漁ってみましたが見つけられず。既に忘れ去られた地名と成り果てているのでしょうか。
代わりに「見借(みるかし)」という地名は見つけられたので、その辺りなのでしょう。


「見借(みるかし)」は「唐津城」横の赤囲み。


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■ 松浦郡「大家嶋」

━━昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡幸した時、この村には大身(オオミ)という「土蜘蛛」がいた。大身は天皇の命令を拒み、背いて降伏しなかったので、天皇は勅命を下して誅滅させた。これ以来、「白水郎(あま、=海人)」らが この島に家を造って住み着くようになった。これにより「大家郷(おほやのさと)」と呼ばれるようになった。この島の南には岩窟があり、そこには鍾乳洞や木蘭がある。また、周りの海では、鮑・螺・鯛などの様々な魚・海藻・海松などがたくさん採れる━━

こちらも記紀には記されない景行天皇の行幸譚。大身という「土蜘蛛」をあっさりと片付けたが如く記されています。「大身」という名から、屈強な巨人であったのかもしれません。

「大家嶋」については候補地が2つあるようです。
*「的山大島(あづちおおしま)」
長崎県平戸市の北方の離島。柱状節理の断崖などの景勝地あり。
*「馬渡島(まだらしま)」
佐賀県唐津市鎮西町の北方の離島。かつては遣隋・唐使の休憩地として利用されたとも。

ともに朝鮮半島へ渡る際の要衝だったのかもしれませんが、果たしてこのような離島にわざわざ景行天皇が赴かねばならなかった理由は見出だせません。


赤三角 … 「的山大島」
紫三角 … 「馬渡島」


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。