百濟王神社


河内国交野郡
大阪府枚方市中宮西ノ町1-68
(P有、「百済寺跡公園」南東隅から西進して進入)

■旧社格
村社

■祭神
百濟国王
進雄命


「天野川」東岸、「淀川」に合流する直前の要衝に鎮座する社。現在は枚方市街地近くの閑静な住宅街。隣接して百済王廃寺が公園として整備されています。
◎当地一帯は「交野ヶ原」と称され、平安時代には別邸を設けた惟喬親王(コレタカシンノウ)を始め、貴族たちが狩猟や歌会を頻繁に行った地。桜の名所でもあったとか。
◎当社は百済王氏(クダラノコニキシノウジ)の祖霊を祀る社。舒明天皇三年(631年)、最後の百済国王である義慈王が、豊璋(兄)と善光(善広、弟)を人質として出し、善光がそのまま日本に留まります。斉明天皇六年(660年)に百済国は滅亡。天智天皇二年(663年)「白村江の戦い」にて倭国援軍と百済復興軍とが敗れ、多くの遺民が難波に亡命します。翌664年には善光に難波の地が与えられ、渡来人が対外、国内活動に活躍の場が広がりました。現在の大阪市住吉区「湯里」(参照 → 湯里住吉神社)。持統天皇七年(693年)には「百済王(クダラノコニキシ)」の姓が与えられています。
◎善光の曾孫、敬福(キョウフク)が陸奥守に任命され、天平二十一年(749年)に赴任先で黄金900両を発見し朝廷に献上。東大寺大仏造立に際し困窮していた黄金不足に大きく寄与。その功により河内守に任命され、翌年居館を交野郡に移します。そこに創建された氏寺が百濟王寺、氏神が百濟王神社(当社)。またその子の南展が死去した際には、朝廷が祀廟を建立させたと伝わります。
◎この交野郡へ移った理由については、茨田郡(交野郡は8世紀に茨田郡より分離独立)の「茨田堤(まんだのつつみ)」が崩壊したことで、渡来人の技術が必要とされたとも考えられています。「茨田堤」とは日本最初に築かれたと記録の残る「淀川」の堤。仁徳天皇十一年に秦人により、大陸の進んだ技術を駆使して築かれたと記には記されています。
◎一方で当社創建に関しては、百済王氏が衰退した後に祀廟に社を建てたとする説もあるようです。式内社となっていないことからもあり得ることかと思われます。
◎一族は桓武天皇の御代に、母の高野新笠が百済の武寧王の血を引くことから社運は隆盛したようですが、その後は衰微。
最も古いところでは、正徳三年(1713年)銘の石造鳥居が「百濟国王牛頭天王」とあることから、既に牛頭天王が祀られていたことが窺えます。








高龗神が祀られています。

こちらが隣接する「百済寺跡公園」。

学習ができるようにと親切丁寧な案内板が貼り出されています。以下すべて掲載しておき、必要に応じて他記事でも流用します。











*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。