(黒坂命を祀る黒前神社) *写真はWikiより





◆ 「土蜘蛛」 十四顧
 (常陸国 山の佐伯・野の佐伯)





出雲へと丹後へと
たて続けに遠征…

その記事作りにも励み…

年末恒例の一年御礼参りマラソンもあり…


気付けば2ヶ月開いていました。

少し落ち着いてきたので
ボチボチと再開します。




記紀に現れる「土蜘蛛」は一通り終えたものと考えています(漏れ無きようしたつもりです)。

各国の風土記等に記される「土蜘蛛」へと突入しました。

北から順に、今回は「常陸国風土記」より。
こちらも未踏の地、画像もWikiより拝借して…となります。


「常陸国風土記」の記述は甚だ重要。

では…始めていきます。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


常陸国の簡単な紹介の後、国内の各郡が紹介されています。その「茨城郡」の条でいきなり「土蜘蛛」の記述が始まります。


━━昔、古老がいうには山の佐伯(さへき)・野の佐伯といふ国樔(くず)(俗に「都知久母(つちくも)」または「夜都賀波岐(やつかはぎ)」)がいた。普段は穴倉を掘ってそこに住み、人が来れば穴倉に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでいた。まるで狼か梟(ふくろう)のように、あちこちに潜んでいては鼠のようにこそこそと、犬のように物を盗み、招き寄せてもいさめる人がおらず、風習がまったく異なっていた━━


「茨城郡」とは現在の茨城県のちょうど真ん中辺り。括れ部分辺りといった方が分かりやすいでしょうか。

水戸市や笠間市など。
「筑波山」の北東辺り。


*Wikiより



「山の佐伯」
「野の佐伯」
2人の「土蜘蛛」が登場しています。

「山と野」、「佐伯」は何を意味するのか
調べましたが分かりません。

「佐伯」は「遮る」を由来とする?
根拠は無し。


「国樔(くず)」であり、
俗に「都知久母(つちくも)」または「夜都賀波岐(やつかはぎ)」というと記されています。

つまり…
国樔=土蜘蛛=八握脛(やつかはぎ)

「八握脛」については他でも出てきます。
長髄彦神も同類。

いつか触れねばなりません。



穴倉に住み…以後は例の如く失礼な書き方に終始しています。



━━あるとき大(多)の臣の一族の黒坂命が野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に茨棘(うばら)を穴倉に敷き、突然、騎兵を放って彼らを追い立てた。佐伯たちは、あわてて穴倉に逃げ戻ったが、仕掛けられた茨棘がからだ中に突き刺さり皆死んだ。このときの茨棘を取り県の名につけ茨城郡となった━━



黒坂命という人物が登場してきました。

記紀には登場しない神。
他の書でも聞いたことがありません。

黒前神社で祀られ、黒坂命古墳と言われる大塚古墳群第1号墳(弁天塚古墳)が比定されているようです。

風土記の記述では「昔」としかなく、時代は分かりません。


「常陸国風土記」逸文というのが存在します。
━━蝦夷を討伐し凱旋途中で常陸国多珂郡の「角枯之山」で亡くなった。亡骸は「日高見国」へ向かった。葬列の赤旗青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引き野や道を輝かせた。だから「幡幣(はたしで)国」と言ったが、後に縮まり「信太の国」という━━

黒前神社や墳墓は常陸国信太郡にあるようです。葬列の様子を史実とするなら弥生時代ではないでしょうね。

「日高見国」についてはここでは触れません。


古墳の出土物等は既に紛失していますが、形態から築造時期は古墳時代中期前半頃(5世紀前半頃か)と推定されているとのこと。

江戸時代の「黒坂命墳墓考」という書があり、概要が記されているようです。

大(多)氏一族であるとのこと。
こちらもいろいろ書きたいこともありますが、焦点を当てているのは「土蜘蛛」。控えます。



「茨城」という地名由来を述べるために、引き出された「土蜘蛛」退治譚。

由来となっていなければ
闇に葬られていたのでしょうね。


(黒前神社) *写真はWikiより