(新宮市の「徐福公園」)





◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~2





思わぬ反響を頂いた第1回目の記事

徐福という人物の知名度、関心度がどの程度あるのか、探り探り上げた記事ですが、これは予想外でした。

それから既に1ヶ月以上経ち、また当ブログの読者も多少入れ替わっています。
前回のような反響は期待せず、また一からのつもりで続きを書き上げていこうと思います。


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前回反響を頂いた背景には、「徐福が秦の始皇帝を欺いた」と記したから、ということもあると思っています。

秦が中国統一を成し遂げるにあたり、最大の敵国が徐福の出身「斉」でした。統一後「斉」は徹底的に滅ぼされるであろうことは公然たるところ。これは日本以外の国の常識。

そこで一世一代の大芝居に打って出たのが徐福。自身が「方士」として始皇帝の信認を得ていることを利用。「不老長寿の妙薬」を得て献上すると始皇帝をそそのかし、大船団を組み、巨万の資金を引き出し、国まるごと日本への大移住を図ったのでした。


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ここからが今回。

当書においては徐福の「東渡」としており、当記事もそれに倣います。



◎徐福東渡の実態

ちょうど私が子供の頃から考古学ブームが起こり、学者や研究者だけでは無く素人までもが参加するようになりました(他人事ではありませんが…)。大いに研究が進み、古代の様々なことが分かってきています。

これは日本に限ってではなく中国においても同様。二千二百年以上の時を経て、多くのことが明るみになっています。「徐福東渡」の様子もずいぶんと分かってきているようです。


まずは造船。
移民は「史記」に「童男女三千人」とあります(一万人説もありますが…)。仮に一艘に百人に乗ることができるとして三十艘(一万人なら百艘)が必要。

始皇帝の私利私欲のためとは言え、まさに国家を上げての大船団による渡航。壮大なスケールのものだったのでしょうね。

徐福の「東渡二千二百年節式典」が中国江蘇省贛楡県金山郷の「徐福村」にて行われたようですが、20万人もの人出があったとのこと。当時を彷彿とさせるものだったようです。

ちなみに始皇帝はこのことを私利私欲とは考えてはおらず、徳の高い為政者が永遠に統治し続けることが必要などと、中国人的な支配層の発想をしていたものと思います。

贛楡県大王坊や上海近くの杭州付近で造船所が発見されているとのこと。これが「徐福東渡」による造船なのかは不明。ただしこの時代に徐福以外の大渡航は文献には見えません。「大王坊徐福造船所跡」と決めつけられていますが…。





いよいよ徐福大船団は旅立ちます!
時は紀元前210年のこと。



◎東渡の航路

徐福の出航は「史記」に三箇所に及び記されています。一箇所の中でも数回に及ぶ渡航が記されてもいるため、渡航の総計は不明。ここでは最後の渡航(紀元前210年)を対象として進めていきます。

出航地は「史記」に明記されていません。諸説あるようです。「斉」国からの出航であることは間違いないであろうと思います。

上部マップのスクショに赤ポイントを示した辺りが、徐福の出身地とされます。上述の「東渡二千二百年節式典」もここで行われています。

「徐福村」と称されますが、同名村は中国各地にあります。東渡の人選に漏れた人たちが姓を隠して各地に移住したとされ、それによるもの。
ただし中国のことですから…縁もゆかりも無くても「うちの村こそが!」などと手を挙げている所もあると思います…。


航路は「北航路」と「南航路」の2ルートがあるようです。

*「北航路」 … (早春~初夏)南西風を利用し山東半島沿いを東進、朝鮮半島沿岸を伝い北九州へ。有明海や対馬海流に乗り日本海へ。

*「南航路」 … (冬~春)北風を利用し大陸沿いを南下、杭州(上海近く)から一気に東へ。九州西岸や南岸へ。さらに土佐沖や熊野灘へ。



◎「東渡」した人たち

徐福は始皇帝を欺く際に、この妙薬の探索の大変さをことさらオーバーに示しました。巨万の資金と、多くの日数と、多くの人員を伴うと。

もちろん本当に探しに行くだけなら、数人で一艘の船で十分なのですが…。

生活に必要なあらゆる技術者を同伴させることに成功しました。「衣に関しては機織り、紙の職人、食では農耕者、特に米作りの技術者、漁撈、住に関しては大工、製鉄工、造船など所謂百工が必要であった。また食糧確保のためには五穀の種子、医薬の植物等も船に積み込んだことであろう」と記しています。

もちろんこれらが紀元前210年に日本へ流入したということになるのです。徐福により日本に甚大な人財と技術がもたらされたのです。



◎「東渡」できなかった人たち

「斉」国まるごと移住を企んだ徐福ですが、国民全員というわけにはいきません。大義名分は「不老不死の妙薬」の採取。高齢者や障がい者、病弱者などは行けるはずもありません。

残された人たちが、始皇帝より酷い仕打ちを受けるのは目に見えること。かつて最大敵国であったわけですし、また徐福が始皇帝を欺いたことはいずれバレます。

徐福はその人たちに徐姓を隠すことと、各地に散らばることを指導したようです。「現在五十六地方に分散して居住している事が明らかになった」と当書にはあります。どこまで信用できるデータなのかは測りかねますが。

また「日本に渡った一行も秦(ハタ)・羽田・畑・波多などで徐姓を名乗っていない」とも。
ただしこれについてはそういう説もあるということに留めておきます。これを支持しているのは少数派ですし、私自身も秦氏についてはほとんど手を付けていない氏族ですし。

徐福の「東渡」後、始皇帝はすぐに崩御したため杞憂に終わるのですが…。




今回はここまで。

次回こそ間違いなく日本における徐福の伝承地について触れていきます。


丹後国の新井崎神社境内に立つ「方士 徐福上陸之址」碑。
断崖絶壁に鎮座する新井崎神社。「上陸」ではなく「漂着」か…。