津神社 (岐阜市曽我屋)


美濃国方縣郡
岐阜市曽我屋字屋敷1631
(駐車は下部写真参照)

■延喜式神名帳
方縣津神社の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
県須美命


「長良川」の支流、「伊自良川」の西岸に広がる低湿地帯「曽我屋」に鎮座する社。
◎創建由緒等は不詳ながら、神名帳に記載される「方縣津神社」の比定社に。他に岐阜市八代に鎮座する方県津神社、岐阜市佐野に鎮座する縣神社が論社として挙げられています(いずれも未参拝)。
◎岐阜県神社庁が引く、「美濃国古蹟考」(近世中期)という書には以下を記しているようです。
━━方縣郡方縣津神社在御麻津庄曽我屋村号津大明神近隣七邑当社を以て産土神と為す 神前池謂ふ 夕部池を御手洗と為す云々 古老伝曰く 当社は縣須身命 武淳川別命也 日本紀崇神紀十年秋九月朔日遣大産命於北陸 淳川別命於東海云々 武淳川別命この時同在此の地殺後祭崇当社云々 市岡猛彦二社考稿曰く 方縣津神社は八代村また曽我屋村にありて 津大明神と称す 且つ曽我屋村農関谷伊は元津神社社務人が家々あり 方縣津神社累縁記曰く 当社の濫觴は崇神天皇阿賀田須命を中央に祀り 左には景行天皇右には武恕賀和命を崇め奉りて方縣津神社と唱ふ云々 右に依りて考ふれば 式内神社ならんかと思はる━━
◎5行目の「大産命」は大彦命の誤植かと思われます。6行目の市岡猛彦は尾張藩士で江戸時代の国学者。本居宣長に師事したとのこと。
◎崇神天皇の勅命により四道将軍として大彦命は北陸道へ、御子の武渟川別命は東海道へ派遣されたと記されます。そして父子は「会津」で合流したと(「会津」の地名由来譚)。
どうやら武渟川別命はこの地で最期を迎えたように読み取れます。「方縣津神社累縁記」という書には、当社の濫觴(始まり)は崇神天皇と阿賀田須命を中央に祀り、左には景行天皇、右には武恕賀和命(武渟川別命)を祀り、方縣津神社として創建されたと。
◎問題はもう一柱の県須美命。この神について触れている資料は見当たらず不明。上記を史実とするなら崇神天皇とともに阿賀田須命が祀られているとのこと。「県須美命」と「阿賀田須命」から連想される神は阿多賀田須命(吾田片隅命)。素盞鳴尊八世孫。大国主命の六世孫や宗像三女神の七世孫であるとも。和爾君の祖であり、和爾氏の総氏神 和爾坐赤阪比古神社に祀られます。また「新撰姓氏録」には宗像朝臣と大神朝臣と同祖と記されています。三輪氏の伝承系図には大田田根子の祖父とあります。この神が祀られているのではないかと考える次第。



社前道路には隣の農協関連の車がずらっと停まっていましたが、その隙間に停めました。この道路(おそらく私道)の所有者がどちらなのか確認していません。



ご本殿は高まりの上に。古墳の可能性もあるように見受けました。