樟本神社 (八尾市南木の本)


河内国志紀郡
大阪府八尾市南木の本7-33
(P無し、近隣停め置き不可)

■延喜式神名帳
樟本神社 三座 鍬靫 の論社

■祭神
布都大神


「大和川」の北側、八尾市の密集住宅地内「南木の本」に鎮座する社。
◎南西100m余りに「木の本」の樟本神社、当地「南木の本」の樟本神社、北1km足らず「北木の本」の樟本神社がそれぞれ鎮座しています。それぞれ「木の本」から分村し、「木の本」の樟本神社から分霊したと伝わります。
◎当社を含めた三社はいずれも物部守屋ゆかりの社と考えられます(→ 詳細は勧請元である「木の本」の樟本神社の記事にて)。
◎当社境内には日羅寺が建ちます。これは日羅(ニチラ)という僧侶が創建し、住んでいたことによるもの。父は肥国(火国)の国造。日本に生まれるも百済に住んでいたようです。そして物部守屋がこの僧侶を保護していたと伝わっているようです。
◎紀の敏達天皇十二年の条には、「先帝(欽明天皇)が果たせなかった任那復興を成し遂げるため、火葦北国造阿利斯登(ヒノアシキタノクニノミヤツコ アリシト)の子の百済にいる達率日羅(ダチソチニチラ)を呼び戻した。そして阿斗桑市の館に住んだ」とあり、この後延々と日羅に関しての記述が続きます。ところが守屋が保護したという記述は見えません。
◎「阿斗桑市」は河内国渋川郡跡部。現在の八尾市亀井町、物部氏系の跡部神社(後ほど記事UPします)が鎮座します。または大和国城下郡阿刀村とする説も。こちらは村屋坐彌冨都比賣神社が鎮座し、境内社に物部守屋等を祀る物部神社があります。
◎守屋は蘇我馬子との宗教戦争に敗れたとされるのが記紀においての記述。ところが僧侶を保護していたと伝わる当社においては、宗教戦争に敗れたのではなく「大和川」の水運、海上物流を巡る覇権争いに敗れたとしています。つまり排仏派ではなかったと。実際のところ他でもそのような事例があり、物部守屋を排仏派に仕立てたのは、記紀編纂に大いに影響を及ぼした藤原氏の関与するところと思えなくもありません。
◎神名帳に見えるご祭神は三座。三社ともに「布都大神」としています。社伝によると一座ずつ分祀されたとのこと。つまり石上神宮で祀られる「布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神」の三座のことと思われます。それぞれが分祀した神名は不明。





往時の「樟」ではないでしょうが。