冨持神社
(ふじじんじゃ)
(とみもちじんじゃ)


丹後国丹波郡
京都府京丹後市大宮町上常吉入船山
(社前に駐車スペース有り)

■旧社格
村社

■祭神
天叢雲命

京丹後市大宮町「上常吉入船山」の山村郊外に鎮座する社。
◎京丹後市「大宮町」の市街地から南方郊外、かつて栄えた与謝野町「加悦(かや)」から北方郊外、いずれも古代丹後国の「始まりの地」のちょうど間。
また豊受大神が丹後に降臨したという「磯砂山(いさなごやま)」の東側麓、そちらと対面する「入船山」という低山中腹に社殿が設けられています。古代丹後を考えうるに、大変に重要な地であるかと思います。
◎拝殿内に掲げられる当社由来は以下の通り。甚だ重要な内容であるため、原文そのままに余すところ無く掲載します(半角スペースのみ追加使用)
━━丹後国の髙峯に磯砂岳と云うあり 比治真奈爲岳とも單に比治山とも云う 山腹に池沼あり比治真奈井と云い里人は雌池(*)とも呼ぶ 當常吉区に属せり 古史に曰う神代の昔 天叢雲命 日向国髙千穂の宮の天忍石の長井の水を移し給える神跡なり 爾来聖水湧出して絶えず灌漑の源泉となり遠近豊穣の惠澤に浴すと曾て 大神は八束重領(*)なるを欄して あなにえしみてし田庭を宣いて(*)歓喜し給えりとぞ 蓋し田庭とは米産の場の義にてやがて国名丹波も是れに因って生じ 神代既に農耕文化の發生地たることを証するものなり 而して上古は比治山の四周を汎く比治と称し後世富持又は藤と訛稱せり 仍ち當神社を富持神社と稱するは如上の温古に由来するものにして郷土の氏神として尊信する所以なり━━ (*は誤読の可能性あり)
◎「磯砂山(比治山)」とは豊受大神の丹後最初の降臨した地として知られるところ。「池(雌池)」については「女池」などとも称されています。この池については天女の羽衣伝説があります(→ 京丹後の2つの「羽衣伝説」の記事参照)
これが天叢雲命が日向国「高千穂」の「天忍石」の「長井の水」より移した神跡だとしています。当社はその天叢雲命が祀られる社。また社名「富持(冨持)」は「比治」から転訛したものであると。かつて「比治山」の四周が「比治」と称されていたことによるものとしています。
◎天叢雲命(天村雲命)は天香語山命の御子。つまり天火明命の孫神。「先代旧事本紀」は天火明命と饒速日命を同一神としているため、これに従うと饒速日命の孫神となります。ところが天火明命と饒速日命は生存年代もまったく異なり、もちろん別神。籠神社は天香語山命が「天眞名井の水」を起こし通し磐境を起こし豊受大神を祀ったのを起源とする社ですが(原始は奥宮の眞名井神社)、先々代宮司 穀定氏、先代宮司 光彦氏ともに同神説をきっぱりと否定しています。
ちなみにこの「眞名井」の地に泉が湧き出て、それを匏(ひさご)に汲んで神前に供えたというのが天叢雲命。眞名井神社が「匏宮(よさのみや)」と称されるのはこれに由来します。
いずれにせよ天香語山命、天叢雲命親子は豊受大神を奉斎する司祭者であったということ。

◎現在は寂れた古社であり創建年代は不明ながらも、太古よりの祭祀跡を引き継ぐという、古代丹後の歴史を考える上で甚だ重要な社のようです。


県道76号線から当社へ。







奥の山は「磯砂山(比治山)」でしょうか。

こちらが本文にて引用した当社由来。