水門神社 (串本町大島)
(みなとじんじゃ)


紀伊国牟婁郡
和歌山県東牟婁郡串本町大島73-2
(P無し、地元の方の許可を頂き漁港Pに停めました)

■旧社格
村社

■祭神
誉田別命
[配祀] 市杵島姫命 事代主命 木花開耶姫命


本州最南端、串本の太平洋に突き出た「潮岬」から、最短で1.8km隔てた離島「紀伊大島」内に鎮座する社。
◎社伝によると、神功皇后が三韓征伐を終え帰途凱旋の時、都で忍熊王が反乱を起こしていることを知り(「香坂王・忍熊王の反乱」記事参照)、難を避けて南海を漂流。そして辿り着いたのが「大水門浦」。これは当地のことで、皇子(誉田別命、当時はまだ赤子)を守護するために「通夜島」に仮宮を設けたとのこと。
◎皇后一行が辿り着いたというのが眼前の「田代漁港」辺りかと思われます。「紀伊大島」は「森の島」とも呼ばれ、島のほとんどが森。また海際はほとんどが断崖絶壁、上陸できそうな2箇所のうちの一つがこちら。当社が鎮座しているのがその証かと。
◎さらに沖合いには孤島「権現島」が浮かびます。こちらは熊野大神が熊野速玉大社に鎮まる時に、この島にて休息してから向かったとされます。「権現」とは「熊野権現」のこと。熊野速玉大社の最重要神事「御船祭」においては、当地より「三掛の魚」と「萱穂」が奉献されるとのこと。
「三掛の魚」は熊野大神が「御船島」へ渡御され、島上にて行われる祭祀の贄として献上。「萱穂」は神輿を先導する神馬に乗る「一物」という人形に、矢を擬して用いられるようです。
◎皇后漂着に際して島民全員が出迎えたと伝わります。「通夜島」というのは「紀伊大島」南西すぐの離島。こちらでも島民全員が夜通しで皇子(誉田別命)を守護したと伝わります。島名の由来にもなっています。
◎この「通夜島」は潮岬(しおのみさき)の対岸に辺ります。一面に奇岩が広がる「出雲浦」、太古からの霊地ではないかと想像されます。また謎深き朝貴神社が鎮座しています。皇后が「通夜島」を選んだ理由にもなっている可能性を考えています。
◎江戸時代は若宮と称していたとのこと。大正時代に現社名に改められています。創建年代は不明。社伝が史実であるとするなら、皇后がこの地で祭祀を行い、それを島民たちが引き継ぎ奉斎を続けていたと想像されます。
◎旧正月(2月11日)に行われる例祭「水門祭」が有名。和歌山県の指定無形文化財。これは皇后を島民が船で出迎えたという故事に由来するもの。串本浦、出雲浦(潮岬の南東端、朝貴神社の辺り)、大島浦それぞれが船を出したものの、皇后一行は大島浦からの船に乗ったからとのこと。祭りは島民総出で多彩な神事を行い、歴史絵巻を再現しているようです。


「くしもと大橋」は平成十一年完成。それまでは離島でした。

こちらが「大島港」。

当社はこの山の中腹に鎮座。島内のわずかな平地に集落があります。

仏教施設の横に鳥居があります。



参道途中の境内社。

その境内社から海を。中央辺りに見えるのは「橋杭岩」


神氣が籠る境内。



精巧な瓦製の狛犬。

配祀神の市杵島姫命を祀る境内社でしょうか。