胡宮神社
(このみやじんじゃ)


近江国犬上郡
滋賀県犬上郡多賀町敏満寺49
(P有、一の鳥居横の駐車場は南側)

■旧社格
郷社

■祭神
伊邪那岐命
伊邪那美命
[配祀] 事勝國勝長狹命


霊峰「青龍山」の北西麓、また多賀大社の南1km足らずに鎮座する社。
◎創建年代は不詳。多賀大社とは密接な関係にあり末社であると言われたりも。また御神体山である「青龍山」(標高333m)山頂付近に鎮座する龍宮(当社奥宮)は、多賀大社の「奥の院」とされていた時代も。
また境内にはかつて敏満寺があり(現在は廃社)、当社の歴史を読み解く上ではこの仏教施設の存在も欠かせないものかと思います。
多賀大社と関わるだけに、当社にまつわる資料は多いものの、いずれも断片的。以下それらをいくつか抽出しておきます。
◎まずは「多賀神社誌」(1933年)。
━━現に行はるる敏満寺あたりの口碑によると、胡宮の鎮座地を以て元多賀といひ慣はせて居るが、之を過去の沿革に徴すると、多賀神社に於ひては、中世末頃より胡宮を末社と称し、寛政年中(1789~1791年)に入り、胡宮側より之を否定して奥宮と主張したため、遂に相互の間に紛擾を生ずるにいたったことさへある。胡宮の称を以て児宮の謂とするは、末社説を助くるもの、これを古宮の義とするは奥宮説を支持する所以とせらるゝ━━
ここでは多賀大社の末社説と奥宮説の2つが挙げられ、末社の場合は「児宮」から、奥宮の場合は「古宮」からと示されています。
◎これに対して「木の宮」から転じたものとする説もあるようです。これは当初「青龍山」山頂にて祀られていたものが、麓に敏満寺という仏教施設が建てられ、当社は麓に降ろされ守護神として機能、「木の宮」と称されたというもの。
◎上述のように原初は「青龍山」山頂に鎮まっていたものが、敏満寺が建てられた頃からか麓の現社地へと降ろされたと思われ、創建はこの時ではないかと。
山頂には現在、龍宮と称される小祠とともに磐座が座しています。龍宮は雨乞いの神として奉斎されるようになったのでしょうか。磐座は太古からの信仰であったと見受けられ、そこに当社ご祭神が宿り、さらにいつの頃からか雨乞い祈願の対象の神へと変遷を遂げたと見受けられます。
◎ご祭神には伊邪那岐・伊邪那美の両大神が鎮まるとされています。これは多賀大社と同じ。
ところが「児の宮」とする説があるように、多賀大社には伊邪那岐大神、当社には伊邪那美大神が鎮まるという説が根強くあります。多賀大社は式内社「多何神社 二座」とあるので、両社をもって二座とするというもの。
◎配祀神の事勝國勝長狹命は塩土老翁(シオツチノオヂ)のこと。これは紀の一書に同神であると記され、また伊邪那岐大神の子であるとも。「児の宮」と捉えるのであれば、当社の本当のご祭神である可能性も考えられます。
海神であるものの琵琶湖周辺では祀られているところもいくつか見られ、航海の守護神とみなされていたのでしょうか。







この背後から奥宮(磐座)への参道があります。

磐座や「お池」、「祭礼の広場」は後ほど別記事にて上げます。

敏満寺の残骸。


「寿命石」「枕石」。この中に埋まっているのでしょうか。