◆ 「倭姫命世記」 血汗涙砕身物語 (10.隠=名張へ)
宇陀の深い山々を越え、倭姫命ご一行は伊賀国へ。まずは隠(なばり、現在の名張)から。
倭姫命が辿った地の多くは、険しい山中のいわゆる霊地ですが、隠は至って平地。
山中の霊地、磐座、鉄
巡幸地にはこれらが関与していると考えているのですが、当地はいずれも該当しません。
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【大意】
(崇神天皇)六十四年[丁亥] 伊賀国隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に遷幸、二年間奉斎しました(伊賀国は天武天皇の庚辰年七月に伊勢国の四郡を割いて立てられた)。
【補足】
◎天武天皇の「庚辰」年とは、おそらく680年と思います。
◎「隠市守宮」の候補地は以下の通り。
美波多神社(合祀された田村大明神)
蛭子神社(未参拝)
瀬古口稲荷神社(合祀された三輪神社)
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【大意】
(崇神天皇)六十六年[己丑] 同国(伊賀国)の穴穂宮に遷り四年間奉斎しました。伊賀国造は箆山葛山戸(みふぢくろかづらやまのへ)と地口・御田を献上しました。そして鮎を捕る淵や梁を作る瀬などを拵え、朝夕の食饌を供進しました。
【補足】
◎伊賀国内では「隠の市守宮」に続いて「穴穂宮」へ。やや丘陵地を越えたりはあるものの、概ね平地に鎮座しています(常福寺は不明)。
「穴穂宮」の候補地は以下の通り。
神戸神社
常福寺
◎猪田神社の両社は伊賀津彦命ゆかりの霊地。御神体山には墓所も。これは倭姫命ゆかりの霊地に仮託したものとも考えられます。また山中には磐座も座しています。
◎「箆山葛山戸」は不明。文字からも追うことはできません。「箆」は矢に使う竹のこととされているようですが。