都留美嶌神社 (都留美島神社)
(つるみしまじんじゃ)


河内国若江郡
大阪府八尾市都塚3丁目(詳細住所不明)
(P無し、外環沿いの大型複合SC「アクロスプラザ」より東方すぐ)

■延喜式神名帳
都留美嶋神社 鍬 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
闇御津羽大神(クラミヅハノオオカミ)


国道170号線の東側、平坦地のごく小さな丘陵上に建つ社。かつて200mの川幅があったという「大和川」と「恩智川」に挟まれた地。「大和川」は江戸時代に付け替えられ、現在は「玉櫛川」として細々と残っています。
◎社号を示す石碑には「都留美嶌神社」、八尾市は「都留美島神社」、神名帳は「都留美嶋神社」と、読みはすべて同じものの表記は一定せず正解は不明。式内社でありながら創建由緒についてもほとんど分かっていないようで、ご祭神すらも「不詳」とする資料が見られます。
◎地名の「都塚(みやこづか)」に関して「大阪府誌」は、「都塚は古の由義宮(ゆげのみや)の一部にして、宮跡の遺りて塚たりしより此の名ありといふ」としています。「宮跡」なのか「塚」なのか、どちらとも取れる曖昧な表現。
「八尾の史跡」という書では、「都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く十塚あったので、なまって都塚となったともいう」(八尾市観光データベースから引用)と。つまるところ、「十塚」が「都塚(とづか)」となり「都塚(みやこづか)」ということでしょうか。
◎他の古書においても同様に塚であるとしています。いずれにしても境内の小さな丘陵(高まり)は、塚(古墳)であった可能性が高いようです。これらの塚はおそらく弓削氏(ユゲノウジ)のものであろうと考えられています。
◎弓削氏とは、名の通り弓を製作する「弓削部」を統率した氏族とされます。
物部大連守屋の母が弓削阿佐姫であったことから「弓削大連」と称し、その子孫も代々「弓削氏」を称したものと。道鏡などが子孫として知られます。
また阿波忌部氏の祖とされる天日鷲翔矢命(アメノヒワシカケルヤノミコト)も弓削部を統率していたとされるなど、「弓削」に関しては複数あるとされます。
神名帳には河内国若江郡に「式内大社 弓削神社二座」が記載されます。論社として弓削神社(八尾市東弓削、若江郡)弓削神社(八尾市弓削町、志紀郡)の二社が挙げられています。ともに饒速日命や宇麻志摩治命といった物部氏祖神を祀るものの、弓削神社(八尾市東弓削、若江郡)の方は天日鷲翔矢命やその父とされる高魂命も併祭されています。
◎一方の「由義宮」跡について。これは称徳天皇の離宮(西の宮)。当地周辺は称徳天皇が寵愛した道鏡の出身地とされ、そのゆかりの地に天皇がたびたび行幸、道鏡の俗姓が「弓削」。「由義宮」はそれに因んだものと思われます。北西1kmほどに鎮座する由義神社境内に「由義宮舊趾」の石碑が建てられていますが、現在は当社から南西300mほどの「東弓削遺跡」が最有力地。その西すぐには若江郡の弓削神社があり、弓削氏が奉斎していたのであろうと思われます。
◎かつて「暴れ川」と称された「大和川」畔に鎮座していたためか、遷座があったもよう。南方にあったのを遷したとする資料が多いものの、北西の方向にあったというものも。流されたのは一度だけではなかったのかもしれません。
◎ご祭神については「式内社調査報告」に、「近世以降、地元ではこの神を水の神として信仰し、祈雨に霊験ありとされる」とあり、これが闇御津羽大神つまり闇龗神の由来かと思われます。
したがって原初のご祭神ではないのであろうかと。社名からも推し当てられそうな神名もなく、不詳と言わざるを得ないようです。当社は弓削氏の氏神であり、祖神が祀られていた可能性もあると考えています。




境内社