香良州神社


伊勢国壹志郡
三重県津市香良洲町3675-1
(P有)

■延喜式神名帳
稲葉神社 二座 の論社 
(境内社 小香良洲神社と合わせて二座とする)

■旧社格
県社

■祭神
稚日女尊
[配祀] 御歳大神



「雲出川(くもずがわ)」が伊勢湾河口寸前で二股に分かれる三角洲に鎮座する社。天照大神の妹神を祀るとすることから、皇大神宮と合わせて参ることが江戸時代から慣習に。以降大いに栄え、旧社格は県社に列格しています。
◎創建由緒等については古記録等を有しておらず詳細は不明。まったく異なる3つの創建伝承が生まれ、原始の様子を探るのは困難となっているのが現状。
◎当社側が採用する創建譚は以下の通り。
━━欽明天皇の御代(539~571年)、「香良洲の浜」に夜毎に御神火が現れ里人は畏れたが、一志直青木という者が神意を問うたところ、「吾は生田の長峡に坐す稚日女神である。姉神の坐すこの神風伊勢の地に鎮まりたい」と神託があった━━
つまり摂津国の生田神社(記事未作成)からの勧請。稚日女神を天照大神の妹神としており、神宮に倣い20年毎に式年遷座しているとのこと。
◎この稚日女神の生田神社への鎮座について、神功皇后が三韓征伐後の凱旋の際に難波の海が荒れ、住吉神、長田神(事代主神)とともに稚日女神が軍船を導いたという由緒が伝わります。

三韓征伐の「韓統(からすぶ)」、荒海の「辛州(からす)」等から当社社名由来になったとされます。

◎「神名帳考証」(度会延経、享保十八年・1733年)には、「稲葉神社二座 今加良州社合二座乎 八上姫 木俣神」とあります。これは「式内社 稲葉神社」のこと。
◎明治期の式内社比定に於いては、当社から北西10kmほど内陸部の稲葉神社(未参拝)が採択され、当社は論社ということに。そちらは伊佐和登美神と於保止志神(穂落大明神、=大歳神)の二殿並立の社のようです。
◎「神名帳考証再考」(橋村正身、明和六年・1769年)は以下を記しています。
━━稲場也 前に出る牛庭に同じく稻を枯すの崎也(頭書に云く 香良須の祠官今井氏修造勧録牒には 須氏神社として稲葉神社也とせず いふ所も無証の事也 故に取らず)又名所として星合の濱といふは干曾の濱なるを雅言を以て呼し也 其邊に月読ノ宮の旧跡と云ふ処有り 是は苅稲の事に因て 此神社に月続尊保食神二座を祀れるを 中古誤て二社となせし事有し成べし(○頭書云 日本紀の古き説に月夜見尊の保食神を殺し給ふに 秋の時に稻を刈て穀となすに叶へりと云ふ) 今は然らす俗に月経の祈をなすは 月読は月清みの詞にかよへばなり(月経を月とのみ云ふ事 古事記素戔雄尊の御歌に見えたり)とあり━━
◎先ず社名「香良洲(からす)」は「(稲を)枯らす」を由来としています。配祀神である御歳大神はこれに由来するものでしょうか。
「星合の濱」とは「雲出川」を挟んだ対岸(当社南側)が「星合の濱」と称されていたようです。現在も星合町として地名が残っています。これが元は「干會の濱(干会の浜)」であったのを雅な言葉に替えたと。そしてそこに「月読ノ宮」という月続尊・保食神の二座を祀る社があったが、後に誤り二社としてしまったとのこと。
ただしその星合町に鎮座する式内社 波氐神社(星合神社)にはかなり古くからの七夕伝承があり、古来より「星合の濱」であったのではないかとも考えられます。
◎「神社覈録」(明治三年)は以下のように記しています。
━━稲葉神社二座 稲葉は伊奈波と訓むべし 祭神稲葉八上姫 八野若比女 矢野村に在す加良須社と称す 古事記に云 稻葉八上比売 大穴牟遅神 出雲風土記に云 八野若日女命 進雄命女也 当社社家新家清政云 昔香良洲社の森繁茂して白兎住り 今は木枯て其事なし 渡会彦敬云 古事記稲羽素兎八上姫の拠あるか 然て小加良須宮は近年大水に流れ給と也━━
こちらではご祭神を稲葉八上姫と八野若比女としています。これは記に見える八上姫の神話によるもの(→(【古事記神話】第63回 八上比賣の元への記事参照)
この神話の舞台は稲葉国(因幡国)に於いてのものなのでしょう。ところが当社の社家である新家清政が云うには、昔は森が繁茂して白兎が棲んでいたが現在は枯れたと。ここで起こった説話を因幡国に持ち込み、大国主命と八上比賣を登場させたのかもしれません。
◎なお「稲葉神社二座」の式内比定に宛てているのは、香良洲神社と境内社の小香良洲神社。ただし香良洲神社は官幣社として篤く崇敬された一方で、小香良洲神社は産土神として祀られていたようです。稚日女尊の荒魂を祀るとし、明治に近隣11社を合祀したと伝わります。
◎これらとは別に「角川日本地名大辞典」などは、大同二年(807年)の創建説を挙げています。これは当地に伝わる民話によるもの。
大伴文守が蝦夷征討に向かう際に台風に遭い、香良洲の港に滞留。村人たちは労おうと香良姫の舞を披露。文守と香良姫はともに恋に落ち、蝦夷征討に向かう文守に対し香良姫は香良洲神社にて願掛けをしていたという。やがて文守は蝦夷征討から帰還し香良洲神社へお参りしたというもの(→ 詳細は三重県庁「こまつなぎの松」サイトにて)
◎大伴文守の出自については資料が見当たらず不明。蝦夷平定から帰還後に、戦功を稚日女尊に対して賽したとのこと。またおそらくはこの時に創建がなされたというもの。上記の社名由来である荒海の「辛州(からす)」というのは、この時のことともされています。
◎以上のように創建由緒は多種多様に渡り、またそれぞれの関連もほとんどないため、何れが真相なのかは不明。また式内比定についても意見が分かれるところ。
◎江戸時代にはお伊勢参りには必ず当社にも参詣されたようで、大いに興隆。「伊勢参宮街道」から分岐した「香良洲道」も整備されました。当社で販売を始めた「烏扇」が飛ぶように売れていたとのこと。
また関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で活躍した津藩主となった藤堂氏からの庇護を受け、社殿の造営修理等、巨額の資金を拠出したと伝わります。他にも「宮踊」や「お木曳き」といった行事は現在に至るまで盛大に行われています(案内板を写した下部写真参照)

*写真は2015年11月と2024年4月撮影のものとが混在しています。



第二鳥居


拝殿


ご本殿


小香良洲神社



烏勧請


神宮遥拝所

大国社

浜の宮

稲荷社

御厨

忠魂社

伊勢国に多く見られる山神の合祀





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