高市御縣神社


大和国高市郡
奈良県橿原市四条町761
(北西すぐそばに30分無料の大きな「今井まちなみ広場駐車場」有り)

■延喜式神名帳
高市御縣神社 名神大 月次新嘗 の比定社
高市御縣坐鴨事代主神社 大 月次新嘗 の論社

■祭神
高皇産霊命


「飛鳥川」の南岸、「藤原京」の西部に鎮座する社。少し上流では弥生前・中・後期にまたがる「四分遺跡」があり、上古より人が営みを始めた地として知られます。

◎当社は大和国六御縣神社の一社。他のすべてが式内大社であるのに対して、当社のみが名神大社。これには同じ高市郡に鎮座し、六御縣神社に含まれない久米御縣神社の存在が関係あるのでしょうか。
◎記の神代記に「天津彦根命者高市縣主等の祖也」とあり、後裔が祖神天津彦根命を祀ったものとみられます。
◎紀の天武天皇元年(672年)、「壬申の乱」の際の条には、━━高市縣主許梅(コメ)が口を閉ざし話すことができなくなった。三日後に神懸かり「吾は高市社に居る事代主神である。また身狹社に居る生霊神である」と言った━━とあります。
「身狹社」とは牟佐坐神社のこと。「高市社」については定説が無く、河俣神社天高市神社鴨公神社、そして当社が候補として挙げられます。これを当社のことと見るなら、この時既に創建されていたということに。
翻って創祀については成務天皇の御代という伝承があるようです。
◎一方で式内大社 高市御縣坐鴨事代主神社も存在しました(比定社は河俣神社)。当社からは南南西1km余り。少々離れているのが気になりますが、お互いに遷座があったか、あるいは比定違いか。当社に関しては、近世に「苔の宮」「高県(こけ)の宮」「高木(こうき)の宮」と称されていたことを根拠としているようです。
なお御神体は紙幣であると伝わっています。

*写真は2017年11月、2019年12月、2022年8月撮影のものとが混在しています。



かつての名神大社とは思えない寂れっぷり。大和ならではものです。