伊勢部柿本神社


紀伊国名草郡
和歌山県海南市日方600
(P有)

■祭神
天照皇大神
[相殿] 素戔嗚尊 熊野久須毘命 市杵嶋姫命


かつて「名高浦」と呼ばれ、万葉歌にも詠まれた風光明媚な海沿いの丘上に鎮座する社。現在はやや内陸部となっています。
◎当社は元伊勢「吉備国名方濱宮」の候補地の一つ。「倭姫命世記」によると、天照大神の御杖代は「奈久佐濱宮」に3年間留まった後、「吉備国名方濱宮」に4年間留まったとあります。その数多く候補地が挙げられる中の一。
◎「奈久佐濱宮」は当社の西方3kmほどに鎮座する濱宮(奈久佐濱宮)で大方間違いないであろうとされます。他の候補地も挙げられていません。ところが次の「吉備国名方濱宮」については大きく意見が分かれます。「吉備国」とあることから、岡山県や広島県の吉備地方を中心に候補地が5ヶ所挙げられています。
ところが「紀伊続風土記」は、紀伊国名草郡「名方」から在田郡にかけてがかつて「吉備」であったが、後に在田郡(現在の有田郡辺り)の一郷の地名になったとしています。今もなお在田郡藤並ノ荘下津野村(現在の有田郡有田川町下津野)の小名に「吉備野」という地があるとしています。
そもそも「吉備(きび)」は、当地「毛見(けみ)」あるいは近くの「紀三井寺(きみいでら)」の「きみ」と音が似ていると、そして「名方」は「海南市名高」の古称ではないかという説もあるようです。また濱宮日前神宮と当社との祭礼の交流があることも、当社の有力な手がかりの一つ。

◎「紀伊国名所図会」は、「日方村」(当社鎮座地)の南に接する人家を「名方」といい、「名方」に接する地を「名高」というと。そして「名方」・「名高」を合わせて今は一村となっているとしています。「紀伊国造家旧記」に崇神天皇五十四年、天照大神が「吉備名方濱宮」に遷座したことを記しているが、この「吉備」とは山陽道の三備(備前・備中・備後)の地ではなく、この地の大名であったのがその名が廃れたと。ところが里伝には旧地は今の「藺引ノ森」で、古は「濱宮」とも言ったとしています(→大神宮旧蹟)宮名通りにかつての海岸沿いであったと思われます。

当社由緒によると、高波や津波の恐れがあるから「日方浦の丘の上」という現社地に移遷させたとしています。

◎創建年代は伝わっていないようです。旧社地からの遷座を以て創建かと思われます。式内社に該当しないことから、創建は延長五年(927年)以降ではないかと。「紀伊国神名帳」には「従四位上 伊勢部柿本神」と記されています。編纂年代は平安末期~鎌倉初頭とされるも、もっと後世の作であるとする見解も。

◎秋祭りには日方獅子舞保存会による獅子舞奉納が行われるようです。また夏季(その年により開催期間が異なる)の風鈴祭も見所の一つ。

*写真は過去数年にわたる参拝時のものが混在しています。


周辺は車が通行できない道もあり、地元民以外はこのルートをおすすめします。





御本殿脇。

山原は岩盤が剥き出し。当地へ遷座される遥か上古から、祭祀対象であったのではないかとも思っています。


若宮八幡宮と妙見神社・秋葉神社・金比羅神社・住吉神社

山王神社・稲荷神社

戎神社

同上


「水占いの庭」の「百錬神水」、詳細不明。

「風鈴祭」りの様子(平成三十一年時のものと思われる)。令和五年はおよそ4ヶ月間に渡り行われたようです。