飯野高宮神山神社
(いいのたかみやこうやまじんじゃ)


伊勢国飯野郡
三重県松阪市山添町4
(P有)

■延喜式神名帳
神山神社の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
猿田彦命
天鈿女命


「櫛田川」と派川である「祓川」が分岐する地点に鎮座する社。
◎平安時代までは「祓川」が本川で、「櫛田川」が派川であったが、度重なる洪水で本川と派川が入れ替わったとされています。
当社はその分岐点の北側、「神山」の麓に鎮座。かつては山頂に鎮座していたようです。現在の社地もただならぬ雰囲気を醸していますが、特別な聖地であったのだろうと思われます。そして「伊勢の神宮」の成立過程において、重要な鍵を握る社の一つかと考えています。
◎当地は元伊勢「飯野高宮」の候補地の一つ。「神山神社記」という書によれば、「垂仁天皇二十五年、天照大神が伊蘇宮に遷幸された後、猿田彦神霊と天鈿女命の苗裔猿女命を当宮(当社のこと)の仮主と定め田上石楯が奉仕した」とあり、そして「石楯が老齢の故を以てこれを辞したために倭姫は猿田彦神裔大田命 佐奈県造彌志呂宿禰等を仕へしめられた 」と。「伊蘇宮」にも候補地がいくつかありますが、伊雜宮が最有力でしょうか。この奥宮ともされる「恵利原の水穴・風穴」のさらに奥地(山頂付近)は、「猿田彦の森」と称されかつて古代祭祀場であった名残があるようです。
◎「神山神社記」には続きがあり、「雄略天皇二十二年倭姫命は伊勢両宮(内宮・外宮)の末社を定むるにあたり猿田彦神霊 猿女命神霊を外に移し当宮の末社となし新たに豊受大神分身 気吹戸大神を奉斎せしめた」と。
垂仁天皇と雄略天皇との間にはあまりにも年数の開きがあり、その間ずっと倭姫命は生きながらえていたとは思えません。また「豊受大神分身 気吹戸大神」という記述も気になるところであり、このまま鵜呑みにはできません。ただしいくらかの真実が含まれたものであろうし、当時はそういう観念を持っていたことに注目すべきであろうかと思います。
◎「倭姫命世記」には「阿佐加藤方片樋宮」の次に垂仁天皇二十二年「飯野高宮」に遷り、四年間留まったとあります。またここで「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまへり」と。つまり皇大神宮(五十鈴宮)に鎮まる用意が整ったとでもいうことでしょうか。容易に見過ごすこのできない、非常に重大な記述かと思います。
◎両記述を元にしてみます。天照大神の御杖代を奉戴した倭姫命は「阿佐加(あざか、阿射加・阿邪訶)」にて猿田彦大神の神霊と出逢います。ここからさらに「伊雜宮」へ赴く必要を感じたと。伊勢の国は猿田彦大神が、万物を照らし輝く最高神として鎮まる国であったかと想像しています。この最上のバックアップを得ることにより(国譲りがあったのか)、皇大神宮成立のプロセスが一気に進展しました。おそらく当社に猿田彦大神の神霊を降ろして、最強の守護神としたのではないかと。当地はそれに見合った霊地であると考えられていたのかと思われ、また悠久の時を隔てた現在においても面影を残しているものかと思います。
◎なお皇大神宮の側に鎮まる猿田彦神社は、当社からの勧請である可能性を感じています。もちろん宇治土公氏(ウジトコノウジ)が、古代より連綿と奉斎を続けていたことに変わりはないでしょうが。

*写真は2017年7月撮影のものです。