猿田彦神社


伊勢国度会郡
三重県伊勢市宇治浦田2-1-10
(P有)

■社格等
[旧社格] 無格社
[現在] 別表神社

■祭神
猿田彦命
大田命


神宮(記事未作成)のほど近くに鎮座し、猿田彦神の直系子孫であるという宇治土公(ウジトコ)氏が奉斎していた社。現在もそれは続いています。
◎焦点はやはり謎の神である猿田彦神の根源に迫ることと、もう一つの「猿田彦大本営」を謳う椿大神社との確執かと思います。これだけで論文が書けるほどの内容となるので、ここでは軽く触れる程度に留めます。
◎猿田彦大神が正史に見えるのは、天孫降臨に就き従い道案内をする場面。「みちひらきの神」であると。この時の高天原から葦原中国までを照らしていたという描写は、太陽神であるとも考えられます。また容姿は縄文人を象徴するようなものであったとも考えられます。二見興玉神社の海中、「興玉神石」に降臨したとされています。
また道案内後に高天原から天宇受女命が、猿田彦大神に仕えるようにと遣わされます。一般には夫婦神とされますが、これは猿田彦大神を斎祀る巫女となったのであろうと思います。
◎猿田彦大神の裔に大田命がいて(一説には大田命が猿田彦大神そのものとされる)、その子孫が宇治土公とされます。猿田彦大神は出雲国の「加賀の潜戸(くけと)」で生まれたと「出雲国風土記」には記されます。また丹後国には宇治土公の伝承が残り(伊根町の猿田彦神社の記事参照)、その地を経て伊勢国へ移ったのであろうと考えています。
◎この宇治土公の現在の直系であると主張しているのが、椿大神社の社家である山本氏と、当社の社家である宇治土公氏。
椿大神社には境内に「高山土公」という塚があり、これを猿田彦大神の墓所としています。もちろん発掘調査などはなされておらず不明。ただし比良夫貝に手を挟まれ、海中に溺れる最期を迎えているため、かなりの内陸部に鎮座する当地に古墳が設けられるものかという疑問も。
◎一方当社の方は「倭姫命世記」に、大田命が倭姫命に土地を献上、天照大神が鎮まり皇大神宮となったとあります。つまり大田命は当地の地主であったわけで、大田命あるいは太祖の猿田彦大神はこの地で祀られねばならないかと思います。皇大神宮正殿内に興玉社は鎮座していますが。
「皇大神宮儀式帳」には「宇治大内人(おおうちんど) 無位 宇治土公 磯部小紲(オハナ)」という人物が見えます。これを「磯部(渡会氏)に仕える、楠部村の頭」と捉えているのは筑紫申真氏。「楠部」とは「五十鈴川ばたの細長い水田地帯の、そのいちばん奥地の村」であったとも。当社地からもう少し下流に「楠部町」という地名が残っています。また「御鎮座記」や「神名秘書」にも当地の地主神として記されているようです。

※写真は2017年7月撮影のものです。




天宇受女命を祀る佐留女神社。