☆ 伝物部守屋墓



河内国渋川郡
大阪府八尾市東太子2-9-9
(P無し)



蘇我氏との宗教戦争に敗れた物部守屋を葬ったところと伝えられている地。

この辺りには「弓矢塚」「弓代塚」「守屋首洗池」「聖徳太子古戦場」「稲城跡」など、生々しい痕跡が半径100m足らずの中に集中しており、また守屋所縁の地も多く存在します。ここで本当に最期を迎えたのであろうかと。

物部氏は崇仏派の蘇我氏との争いに敗れたとされています。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り。

━━四月、蘇我馬子との対立がいよいよと深まり、身の危険を感じた物部守屋は朝廷を離れ、別業(別荘)である「阿都」へ退き周りを固めた。そして用明天皇が崩御。七月、馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)らを率いて挙兵。志紀郡から「渋川の家」に到着。守屋は稲城を築き応戦、守屋軍は強固で朴の木枝の間から雨のように矢を浴びせたため馬子軍は退却。太子は四天王の像を作り戦勝祈願をするや戦況は一転、大木に登っていた守屋は射落とされ敗戦に追い込まれた。射た矢が埋められたのが「鏑矢塚」、弓が埋められたのが「弓代塚」、秦河勝が守屋の首を洗ったのが「首洗塚」。墓所は南太子堂に存在する━━

地名等の比定及び推定地は以下の通り。
*「阿都」 → 跡部神社

*「渋川の家」 → 澁川神社渋川天神社
*「稲城」 → 光運寺、樟本神社(木の本)の南東200mほど
*「鏑矢塚」「弓代塚」 → 当記事から独立させ新たに記事を起こします。
*「首洗塚」 → 「守屋池」

*聖徳太子古戦場 → 同上

*墓所 → (当地)

これ以降物部氏は歴史の表舞台から姿を消しました。これは結局、蘇我氏までをも滅ぼした藤原氏側の思惑に基づいた歴史書によるもの。物部氏は実は廃仏派ではなかったなどという説も浮上しています。
(参照 → 渋川天神社の記事)

墓所とされたのは、この伝承地に堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てたことによるものであるとのこと。

「公益財団法人 関西・大阪21世紀協会」はサイト上で、
━━左奥の物部守屋公顕彰碑は、昭和六十二年(1987年)に大阪府神社庁中河内分会によって、薨後1380年の記念事業で建てられたものである。そこには「我が国に初めて仏教伝来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と対立。公は河内に帰り、一族を挙げ…激しく干戈を交えしも…時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられる…」とある。墓の周りの玉垣を見ると、全国の名のある神社がこぞって寄進していることから、守屋が神道にとって欠くことのできない大きな存在であることを訴える━━と示しています。

*写真は2019年5月と2023年3月撮影のものとが混在しています。






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