天神社 (渋川天神社、八尾市渋川町)


河内国渋川郡
大阪府八尾市渋川町5-7-8
(P無し、近隣停め置き不可)
(「ジョーシン久宝寺店」のJR線を挟んだ向かい側)

■祭神
素盞嗚尊
菅原道真


JR八尾駅と久宝寺駅の間、住宅密集地内、八尾市「渋川町」に鎮座する社。境内は線路沿い。宝永元年(1704年)に「つけかえ」がなされる前の「大和川」西岸沿い。通称は「渋川天神社」、正式社名は「天神社」。線路向こうには式内比定社 澁川神社(渋川神社)が鎮座しています。
◎当地はかつて物部守屋の別業(別荘)があったとされる地。当地一帯を根拠地としていたのは弓削連。その祖とされる倭古の娘の阿佐姫を母とするのが守屋。当社地の南西にはかつて「渋川寺」という仏教施設があったことが発掘調査で判明(下部に案内石板を写した写真有り)。こちらが「太子傳玉林抄」(室町中期)という書にみえる「澁河寺」に比定されます。
蘇我氏との宗教戦争があったと紀に記される物部氏。崇仏派の蘇我氏に対して、廃仏派の物部氏という構図。「渋川寺」は物部氏の氏寺であったという説もあります。
◎ところが発掘調査の精査の結果、その施設は出土瓦から7世紀前半の創建とみられるということに。つまり物部守屋が没したのは用明天皇二年(587年)のこと。50年前後のズレが生じています。
◎これを巡り物部氏が実は廃仏派ではなかったという説も(「先代旧事本紀」には廃仏派であるとは記されない)。当社の南方2kmほどに鎮座する樟本神社(南木の本)では、僧侶を匿っていたという伝承も。そちらでは守屋は宗教戦争に敗れたのではなく、「大和川」の水運の覇権争いに敗れたと伝わっています。そうすると物部守屋の歴史は、紀記編纂の黒幕である藤原不比等により歪められた可能性も。
◎またこれらとは別に、物部氏宗家滅亡の後に守屋所縁の地に、蘇我氏或いは聖徳太子もが仏教施設を建てたという説もあるようです。なお出土瓦は蘇我氏系の豊浦寺系瓦であり、瓦の組み合わせは法隆寺西院伽藍様式。
◎当社創建は白鳳年間(645~710年)と伝わりますが、その根拠は不明。鎮守社という見方でしょうか。明治には澁川神社に合祀されたものの現在は復社しています。




ご本殿と脇殿二座。



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