ここまでで
「棚機(七夕)祭」の起源(日本伝来)についての記事を起こしてきました。

この記事では
その伝来から宮中祭祀となるまでの間のことを。

その痕跡となるものが葛下郡、忍海郡、葛上郡には残っています。

 
5世紀頃にさまざまな技術者集団が渡来していますが、
最新の機織技術をもった集団もその一つ。

それが倭文氏(シドリノウジ、シズリノウジ)や置初氏(オキソメノウジ)が束ねたと言われます。

伴造(ともなみやつこ)と呼ばれる、専門職に従事して朝廷に奉仕した集団のこと。


さらに倭文氏や置初氏らを束ねていたのは
この地域一帯を支配していた葛城氏。
朝廷に匹敵、あるいは凌駕する権力を持っていました。


倭文氏は海人族であったと考えられ、
それゆえにいち早く渡来人と結び付いたようですが、

船で自由に駆け巡ることができるため
全国に拠点を持ちます。

全国の倭文神社がその痕跡。


国名を表す「倭」と「文布(あやぬの)」が合わさり
「倭文」となったらしく、
元々は「しずおり」と称されていたとか。


その本貫地が葛下郡に鎮座する棚機神社の辺り。
元々ここには式内大社 葛木倭文座天羽雷命神社が鎮座していました。




その葛木倭文座天羽雷命神社は
中世の頃に現在の博西神社に遷座され、



現在は掃守神社、二上神社とともに
葛木倭文座天羽雷命神社として二上山の麓に鎮まっています。




〈続く〉