あれやこれやと手をつけては放置中のテーマが散らかっていますが…

鳥見山・多武峰郷土史、忌部山の謎、布留の源流、ニギハヤヒの謎、若狭彦大神の謎、三輪の磐座コレクション、柳生・都祁の九頭龍神、隠口の九頭龍神、五十猛神や名草姫の謎、丹生都比売の謎、神武東征を追う…

櫛田川沿い神社の記事もまだ…
柳生の九頭神社記事もまだ…
熊野の神社なんてまだほとんど…

まだ他にもあったっけ?


このテーマだけはなんとか早く完結させたいと思っています。
来年こそはついに下照姫の謎に迫りたいと思っているので。


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さて…続きを。



「棚機(たなばた)」が日本に伝来したのは
5世紀頃の「倭の五王」時代であるとしましたが、

「七夕」が日本に伝来したのも
同じ頃ではないかと考えています。


「七夕(たなばた)」ではなく「七夕(しちせき)」。


「棚機(たなばた)」と「七夕(しちせき)」が
ごちゃ混ぜになってしまい「七夕(たなばた)」となったようです。

「七夕(しちせき)」をごく簡単に言うと、
七月七日の儀式。

つまり機械の名前と儀式の名前とが
ごっちゃになったということです。




「七夕(しちせき)」は中国のいくつかの文献にはっきりと出ています。

初出は5世紀頃に編まれたもので、
紀元前後の漢の時代に書かれた詩を掲載した中に表されています。


それらの内容を要約すると…

・一年に一度、七月七日に牽牛と織姫が会合する夜である
・「乞巧奠(きこうでん)」という儀式が行われる
・その儀式は、七月七日夜に婦人たちが七本の針の穴に美しい糸を通し、捧げものを庭に並べ針仕事の上達を願ったもの

ざっくりとまとめました。


ではなぜ「棚機」と「七夕」が習合したのか。

それは日本に古くからあった「棚機津女」の慣わしと
これまたごちゃ混ぜにしたから。

儚いロマンス好きの日本人が
ごちゃ混ぜにしてしまった、その気持ちはよく分かります。


「棚機津女」について、これまたざっくりと。

神の一夜妻となるために、川の畔にある「機屋」に籠り神衣(かんみそ)を織る選ばれた処女


誤解が生じないよう、言葉は慎重に選んだつもりですが
あくまで学術的な記事ではないので、ご理解を。


ここで民俗学の第一人者である
折口信夫氏の「たなばたつめ」を引用します。

異論も多いようですが、
この方ほどロマンたっぷりに民俗学を突き詰めた方はいないかと思います。


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「ゆかは(ゆかわ)」の前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵にあった。
村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や池・湖の入り込んだところなどを択んだやうである。
そこに「ゆかはだな(湯河板挙)」を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生まれた者は、成女戒を受け皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女(えおとめ)が、このたな作りの建物に住んで、神の訪れを待っている。
これが物見やぐら造りのを「さずき(または「さじき」)」、懸崖(かけ)造りのを「たな」と言うたらしい。
こうした処女の生活は後世には伝説化して、水神の生け贄といった型に入る。
来るべき神のために機を構えて、布を織っていた。
神御服(かんみそ)はすなわち、神の身とも考えられていたからだ。
この悠遠な古代の印象が今に残った。
崖の下の海の深淵や、大河・渓谷の澱(よどみ)の辺、また多くは滝壺の辺などに、筬(おさ)の音が聞こえる。
水の底に機を織っている女がいる。

(中略)

村人の近寄らぬ畏ろしい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。


(読みやすくするため、原文を多少いじっています)


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ここまで「棚機(七夕)」の起源について触れてきました。

次回以降では「棚機(七夕)祭」の痕跡について触れていきます。