水口神社
(みなくちじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県天理市渋谷町上山416
(当社すぐ横の国道沿いに周囲の史跡巡り用の大きな無料P有)

■延喜式神名帳
水口神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
誉田別命


渋谷向山古墳 (景行天皇 山邉道上陵に比定)の培塚とされる「上ノ山古墳」のくびれ部分に鎮座。◎国道からも見える式内比定社であるものの、今にもひっくり返りそうなほどの凋落ぶり。小さな扁額以外は案内や社名を表すものも一切ありません。当社を崇敬する地元古老が一人でほぼ毎日お世話をされている状態。
◎ご祭神の誉田別命は後の時代の勧請によるもの。江戸時代には天王社と称され牛頭天王を祀っていたようです。
奈良県史などはご祭神を水口大神としており、天皇社であった時期もあるとしています。その水口大神は大水口宿禰であると。そして姓氏録を引用し「穂積編臣。伊香賀色雄男大水口宿禰之後也」と記しています。つまり饒速日神の四世孫。「神社覈録」や「特選神名蝶」なども同様に大水口宿禰で一致。社の凋落ぶりはあたかも物部氏の凋落ぶりと重なるよう。
◎その他、非常に気になる記述が紀にあります。垂仁天皇十四年十月の条に「倭大神が穂積臣の遠祖 水口宿禰に神懸かりした」とあるのです。「倭大神」とは大和神社の倭大國魂神のことかと思います。大水口宿禰大和神社の祭祀に関わっていたということが考えられます。境内の祖霊社にも名前が連なります。また謎の倭大國魂神が、物部氏の遠祖である饒速日神であったと考えるのは飛躍し過ぎでしょうか。
◎なお当社は旧社地から遷座されてきたとされ、その地は2説あります。「大和志料」は現社地の東、八丁許「イモノミナクチ」にあったのを中世に遷座としています。また別説として西の大市庄から遷されたとも。氏子の間では東からの遷座であるとのみ伝わっており、こちらが有力かと。地元古老によると「イモノミナクチ」の場所とは、「龍王山」の東麓、「ヲカダ塚」がある池の前。なだらかな丘陵地の中で唯一平らになっている場所(下部写真参照)。
◎上述の通り大水口宿禰大和神社と強い関わりを持ちます。その大和神社の旧社地も不明となっており、こちらも「龍王山」の東麓辺りであろうと考えられています。当社旧社地は大和神社旧社地の境内社であった可能性もあるかと考えています。
◎地元古老によるとご本殿が鎮まる高まりは、日本武尊の母方の祖母が眠る墓であるという伝承があるとのこと。北500mほどには、日本武尊が東国平定に向かう際に戦勝祈願を行った地という伊射奈岐神社が鎮座しています。
日本武尊の母は播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)。父の景行天皇が妻問いに播磨国へ向かい皇后としています。播磨稲日大郎姫の御陵は播磨国印南郡の日岡陵古墳(未参拝)。その母の墓となるとやはり播磨国内とみるべきかと。伝承は錯誤しているのでしょうか。


※写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。









山ノ上古墳から二上山を。

こちらが旧社地推定地。

すぐ背後の池と「ヲカダ塚」。

200mほど手前(西側)から「龍王山」を。