八幡神社 (伝 神八井耳命墓、橿原市山本町)


大和国高市郡
奈良県橿原市山本町152
(P無し、近隣停め置き不可、駐車場のある神武天皇陵より道があり徒歩15分前後、下部写真参照)

■祭神
誉田別命


神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の陵墓と伝承される社。
「畝傍山」の北の山裾に鎮座、小さな集落の外れにひっそりと佇みまるで聖地さながらの趣。祠の建つ辺りは斜面になっており墳墓らしき高まりが見受けられます。規模は4~5mくらいでしょうか。
◎神八井耳命は神武天皇と皇后 姫蹈鞴五十鈴姫命(紀では大物主神の娘、記では事代主神の娘)の第二子。長男は彦八井耳命とされるも、「新撰姓氏録」など神八井耳命の子とする文献が見られます。神八井耳命は長子であった可能性も。三男は神渟名川耳命(第2代綏靖天皇)
◎紀には唯一の事蹟が記されます。
━━手研耳命(タギシミミノミコト、神武天皇の日向時代の妃、吾平津媛の皇子)が皇位を狙い、神八井耳命と神渟名川耳命を害そうとした。ところが事前に知ることとなり、二皇子は手研耳命を大和国「片丘」で討った。その際に神八井耳命は震えて矢を射ることができず、討ったのは神渟名川耳命。これを恥じた神八井耳命は皇位を神渟名川耳命に譲り、自身は神祇祭祀を掌ることとなった━━(大意)
これは当時の末子相続制を知らない紀の編纂者の創作話であろうと思われます。当時は長子が「祭(まつり)」を掌り、末子が「政(まつり)」を掌っていたというもの。当時はすべて「祭」によって得られる神の教えに基づき、「政」を実行していました。
◎神八井耳命は多氏を始めとした多くの祖として知られます。総氏神といった多坐弥志理都比古神社や河内国志紀郡の志貴縣主神社など、多くの社で祀られています。

当初は「八井神社(やいじんじゃ)」と称されていたようで、「奈良県史」などもこちらが神八井耳命の陵墓としています。
◎「奈良縣高市郡古墳誌」(大正十二年)には以下の記載があるようです。
━━墓地元御陵山と云ひ傍に小祠あつて岩井耳と云つた。岩井耳は八井耳の轉訛であるから、此の地命御墓の傳説地なること (中略) 當墓地は、現今白橿村大字山本の村社々地なるべきに、往々其の西方にある眞菅村大字慈明寺の綏善塚と混同した様である (中略) 當御墓が延喜式に洩れたのは、其の事由素より知るに由なきも蓋し早くから荒癈に歸して居たからであらう。且後世甚く耒耜の災厄を蒙つて(鍬鋤で耕されてしまったという意味かと)、現今に至つては殆んど塚形を認むることが出來ない。然るに幸にも廟祠岩井耳社の古くより靈蹟を物語るあつて、其の所傳と所在を留めて來たのは最も喜ぶべき現象である。斯くて此の神社は明治十二年の神社調査の際、里人の無稽なる擅に社名を變更して爾後八幡神社と稱し、應神天皇を奉祀して以て靈阯を湮滅に歸せしめて居るのは、返す返すも遺憾なことである━━
◎なお紀では神八井耳命を「畝傍山」の北に、記では神武天皇をこちらも「畝傍山」の北に葬ったとしています。神武天皇の方は当地よりおそらく南東の方角かと思います。当社も「畝傍山」山頂から北北西の方角にあたります。

*写真は2018年8月と2023年3月撮影のものとが混在しています。


神武天皇陵の拝所から参道を南に100mほど、西側へ向かうこのような路地が見えます。

神宮外苑の中を200m余り進んで行きます。これもまた良いものかと。

外苑を出ると現れる通路、そのまま真っ直ぐに進みます。


通路の突き当たりに集落があります。そこを左折したところ。この写真に見える突き当たりを右折します。


民家の前を通りすぎると、道はまださらに奥へ続きます。

石段が見えます。






立派に屹立する陽石。




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