畝火山口神社
(うねびやまぐちじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県橿原市大谷町157-1
(P有)

■延喜式神名帳
畝火山口坐神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
氣長足姫命
豊受比売命
表筒男命


「大和三山」の一、「畝傍山」の西麓に鎮座する社。
◎まず冒頭に当社は本来は「式内大社 畝火山口神社」ではなく、「式内社 東大谷日女神社」であり、入れ替わっているのではないかと考えています。それを念頭に進めていきます。
「式内大社 畝火山口神社」は大和国六所山口社の一社。山口社ということで本来のご祭神は大山祇命であろうと思われます。現在は境内末社としてひっそり祀られています。
◎遷座などの経緯はさまざまな資料から見えてくるものがあります。まず「五郡神社記」(1446年)に「久米郷畝火山西山尾に在り」、ここでは現社地辺りともとれる地にあったとしています。「天正古地図」(1575年)には山頂に社殿が描かれているようです。つまり1446年から1575年の間に山頂に遷座されたという、わずか130年に絞り込むことができます。いずれも「山腹から山頂に」と。山頂に遷座した理由は南方に建てられた貝吹山城(高取町与楽)が、畝火山口神社を見下ろすような格好になったためとあります。
山頂から現社地への遷座は昭和に入ってから。皇紀2600年祭で、神武天皇稜を見下ろすのは神威をけがすというのによるもの。
◎この山頂にあった神社ですが神功社と呼ばれていたようです。この社が式内大社に比定されたのですが、これに疑いをもつのが渡会延経と伴信友の同じく「神名帳考証」の両書。これを踏まえてより詳しく記されるのが「日本の神々」。そもそも「畝傍山」を拝するのであれば神社は山の東側にあるのが自然であると。これは山口社が創建されたと考えられる飛鳥時代の思想によるものかと思います。確かに北側に三社あるものの、他はいずれも東側。
◎その「畝傍山」東側に鎮座しているのが、式内社の論社 東大谷日女命神社(やまとおおたにひめじんじゃ、奈良県神社庁は「ひがしおおたにひめじんじゃ」とする)。「東」は方位の「東」ではなく「倭(やまと)」。なぜこの字があてられたのかは分かりません。もう一社、桜井市山田に同名社がありますが、立地条件などから可能性は低いのでここでは除外します。
◎当社の立地は「畝傍山」の西麓の深く入り込んだ谷あい、まさに「大谷」であると「日本の神々」はしています。また社家は大谷氏であることも手がかりの一つ。以上から両社はいつの間にか入れ替わってしまったものと考えます。
◎「摂津名所図絵」(1796年)に当社の記述があるようです。住吉大社の神官が「天香久山」に向かい、香山(天香山神社か)の社司とともに「畝傍山」にて埴土を取ったと。その埴土を使って天平瓮を造って住吉大神に奉ったようです。これはもちろん神武天皇東征の兄猾(エウカシ)平定時のエピソードを継承したもの。いつの間にか「天香山」から「畝傍山」に変更されていますが。おそらくこのことにちなんで神功皇后(氣長足姫命)がご祭神となったのでしょうか。
◎現在は女性宮司が勤めておられ、境内は細やかな配慮で美しく管理なされています。もちろん古社の面影は残しつつ、とてもいい雰囲気に。

東大谷日女命神社 

「畝傍山」登拝記事 


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。








境内は非常に美しく、穏やかな気分にさせてくれる社。








祓戸大神

陰陽石