☆ 松岳山古墳



河内国安宿郡
大阪府柏原市国分市場1丁目
(登り口は国分神社から、神社の見学許可が必要、Pも神社にて)

■形状
前方後円墳
■全長
130m
古墳の周囲に板のような石を斜めに積み上げたものがあり、それを含めると155m
■築造時期
古墳時代前期 4世紀中頃から5世紀頃
■埋葬施設
竪穴式石室
■出土品
勾玉、管玉、ガラス小玉、鉄製武器(合計50kg)、円筒埴輪、巨大楕円形埴輪(盗掘済み)
*出土品は柏原市有形文化財に指定
■周辺の状況
大和川べりに築造、後円中心から南の方へまっすぐ降りたところに国分神社が鎮座。
すぐ東隣にサヌカイトを搬出する「芝山」があり、墳丘などに散乱。
■被葬者
不明。古墳の築造時期、規模、地理的要素を考えると大王級に近い被葬者の可能性も。



◎当地は推古、舒明の両天皇に仕えた、船氏(渡来系帰化人)の拠点だったのではないかとされています。本拠地はもう少し下流の羽曳野市野々上。そして野中寺が氏寺であると(その鎮守社は野々上八幡神社)
◎船氏は中国の古札や接待、技術などを伝えたとされている氏族。当地は「大和川」が大きく曲がる川原のすぐ側であり、船運の要衝。巨石がごろごろと転がっているため、ここから上流は進むのは難しいとのこと。ここで一旦積み荷を降ろし、積み替えがなされていたようです。祖神の王辰爾が船の司に任命され、船氏姓を賜っています。船氏が勢力を持ったのも関所としての機能を生かしたからとか。
◎孫の王後首(オウゴノオビト、船 王後)と妻の安里故能刀自(アリコノトジ)がご本殿裏の「松岳山」に葬られたとされ、その頃から何らかの祭祀が始まったと考えられます。国分神社の創建に関わると考えられています。
◎これは当地から「船氏王後墓誌」(国宝)が発見されたという伝承によります。当山はかつて「松岡山」と称されていたこと、船氏が活躍したのは「大和川」のこの位置であろうと考えられること、そしてご本殿自体が明らかに古墳を意識した場所に建てられているのがその理由。
◎ところが古墳の出土品から推定される築造時期は4世紀後半。300年ほども時代に隔たりがあります。前方後円墳の周囲に7基の円墳があるらしく(現在はかなり消滅、下部にて)、飛鳥時代の古墳形状から考えると船氏が葬られたのは円墳の方でしょうか。
◎本来の被葬者は、大和王朝から河内王朝への過渡期に権力を蓄えた人物のようです。西の玉手山古墳群(→ 伯太彦神社の記事参照)の後、ほぼ同時期に当古墳が築造され、今度はさらに先の西に古市古墳群が形成されて河内王朝へと発展しました。「大和川」の水運があり、大和国を越えた河内国の入り口、墳丘からは大阪平野が一望、対岸では鑪製鉄が行われ、隣山ではサヌカイト…と好条件が多く揃っています。
◎被葬者に関しては後述の立石が佐紀山陵古墳(日葉酢媛陵)と似たものであり、讃岐国とのつながりが見出だせることがヒントになるのでしょうか。
◎石室は掘り出された状態で内部を確認することができます。石室前後に謎の立石があります。佐紀山陵古墳(日葉酢媛陵)では石室の南北の壁として使われていたようです。
◎この松岳山古墳を中心に計8基の「松岳山古墳群」が形成されていたようです(下部写真参照)。現在は松岳山古墳と茶臼塚古墳以外はすべて廃滅。以下それぞれの古墳のわずかながら伝わる情報を掲載しておきます。

【茶臼塚古墳】
南北22m東西16mの方墳。竪穴式石室。築造時期は松岳山古墳とほぼ同時期とのこと。注目は多数出土した碧玉製装飾類、銅鏡(三角縁神獣鏡、四獣鏡)

【向井山茶臼塚古墳】
三角縁四神四獣鏡・三角縁四神二獣鏡・盤龍鏡の三面が出土。古墳は消滅、正確な位置も不明。

【ヌク谷古墳群】
下部写真の⑤~⑧の4基、すべて消滅。銅鏡や碧玉製品、刀などが出土。⑦の東ノ谷大塚古墳は直径30mほどの円墳。

*写真は2008年2月と2022年2月、8月撮影のものとが混在しています。


国分神社境内からの登り口、許可が必要。


登拝道にはサヌカイトが散乱しています。

2022年8月現在、左の木製品はありません。

2022年8月現在、手前の立看板はありません。



こちらが謎の立石。

「北立石」

「北立石」の断面。こちらにもサヌカイトが散乱しています。

「南立石」

「南立石」断面。こちらの方が厚くなっています。




以下、柏原市立歴史資料館の展示物。(鰭付楕円形埴輪)