野々上八幡神社


河内国丹比郡
大阪府羽曳野市野々上622
(隣接の野中寺Pに停めました)

■旧社格
村社

■祭神
八幡大菩薩


「羽曳野丘陵」の北端、「竹内街道」に面して鎮座する社。
◎創建年代は不詳。隣接する野中寺(やちゅうじ)の鎮守社として創建されたのではないかとされています。そちらの仏教施設の創建は発掘調査などから、白雉元年(605年)の頃であるとのこと。当社は奈良時代から平安初期には建立されていたとされます。
◎当社を奉斎していたとされるのは野上連(ノノウエノムラジ)。渡来系の魏族。延暦四年(785年)に野上連の姓を賜ったとあります。「新撰姓氏録」には「河内国 諸藩 漢 広階連同祖 陳思王植之後也」と。広階連は「出自魏武皇帝男陳思王植也」と記されます。
◎一方で隣接する野中寺は船氏の氏寺とするのが有力。船氏は王辰爾(オウシンニ)を祖とする百済系の渡来氏族。
紀の欽明天皇十四年(553年)の条に、蘇我稲目が勅を受け王辰爾を遣わし船の賦(みつぎ)を数え記録させています。この時に王辰爾は船の司となり船史姓を授かったとあります。
◎察するに「大和川」のもう少し上流で岩場となっているところがあり、「河内湖」(現在の大阪湾)から遡る船が、ここで積荷を降ろしていたとのこと。その地で数えたのではないかと考えます。その地とは畔に国分神社が鎮座する辺り。ご本殿背後の松岳山古墳群は船氏のものと考えられています。
◎野上連と船氏との関係を示す資料は見当たらず不明。一拠点に異なる氏族が同居するという極めて不自然な様相。今のところ渡来系という括りのみ、出身国も異なります。
紀の敏達天皇 即位元年の条に王辰爾のみが、渡来系文化人の中で高麗の国書を解読したとあります。想像を逞しくするなら、これを実際に解読したのは野上連だったのではないかという思いも。魏は高麗(高句麗)と接しており、解読できたのではないかと。
◎ご祭神はかつて野上連の祖である牛頭天王を祀っていたという説があるものの、こちらも根拠等は不明。
◎南北朝時代には隣接する野中寺とともに、「延元の乱」の「野中寺合戦」による兵火で焼失。寛文年間(1661~1673年)に、野中寺と合わせて僧侶の手により再興、この時に八幡大菩薩をご祭神とする八幡神社となったようです。
明治の神仏分離令により野中寺と分離、羽曳野市高鷲の大津神社(未参拝)に合祀されるも、昭和三十二年に復社され現在に至ります。




「平和の社(やわらぎのやしろ)」英霊殿のこと。ご祭神は平和之神。