名草神社(冬野)


紀伊国名草郡
和歌山市冬野宮垣内2107
(P無し、ギリギリ1台多少はみ出しながら停められるスペース有)

■旧社格
村社

■祭神
名草比古之命


「名草山」の西麓から少しだけ離れた内陸部に鎮座する社。かつては海中であったとされます。
◎和歌山県神社庁によると、「紀伊国神名帳」の記述を引き名草比古之命と名草比賣之命がいずれも従四位の神階(地祇としては最上位)を授かったとしています。そして名草比古之命を神産霊命の五世孫、天道根命の五代孫とし、妻である名草比賣之命を紀伊国造「智名曾」の妹であると。さらに紀伊国造、紀氏の氏神の斎祀る社として古くから奉斎されていたとし、延喜式にも「中言大明神社」としてその名が見えると続けています。
◎これらについてはかなり難のある解釈かと思います。まず神階授与については疑いの無いところですが、式の「中言大明神社」とともに、吉原の中言神社に対してのものであろうと。海南市黒江の中言神社の古記録には、南北朝時代に当社とともに吉原の中言神社から勧請されたとあります。おそらくはこちらが真相かと。
また名草比古之命と名草比賣之命を夫妻神としていることや、両神の出自も甚だ疑問。
名草比賣之命とは、神武東征時に皇軍に誅されたと紀に記される女首長 名草戸畔のこと。名草比古之命は詳細不明ながら、いわゆる「ヒコ・ヒメ」制のヒメ(巫女)が神懸かり受けた神託を基に実際に行うヒコ(政治担当者)であろうと考えられています。
当地の伝承を丹念に調べ上げたなかひらまい氏によると、皇軍との合戦において名草軍は勝利したと。そして名草邑の人々は紀氏と名乗るようになりますが、神武天皇が大和を平定し大和王権の勢力が全国へ拡大しつつある時に、紀氏一族のうち王権側に取り付いたのが紀伊国造家であろうと。
したがって当地に勧請以後は別として、勧請元の黒江の中言神社においては大和王権の統治以後も紀伊国造家を寄せ付けない神社であったかと思います。
◎この辺りはなだらかな平地の中にある小高い丘(小山)の麓、古代は山ごとに集落があり、集落ごとに名草姫が祀られていたのかもしれません。社殿は新しく、古社の雰囲気はありません。それでも新しくできるほどの氏子からの崇敬があったように思います。