わくわく海賊団 -3ページ目

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

海辺の景色と橋、緑豊かな風景

 

 贅沢って、なんでしょうね。

 

 お金をいっぱい持っていれば、

 高いものを買える。

 

 でも、それだけが、

 ラグジュアリーではないように思います。

 

 たとえば日本には、

 昔から茶道具や着物、器や家具など、

 ていねいに受け継がれてきたものがあります

 どれも高い技術と精神がこめられていて、

 海外からわざわざ求めに来る人もいます。

 

 でも、おもしろいのが、

 日本的なラグジュアリーが、いわゆる

 貴族の贅沢とは少しちがうことです。

 

 西洋のラグジュアリーは、

 大きなお屋敷や社交界、晩餐会のように、

 庶民には縁のない暮らしから生まれました。

 

 それに対して、日本では

「庶民の暮らしのていねいさ」から、

 豊かさを見出す流れが強くあります。

 

 梅の時期に梅酒を漬けるとか、

 家具をじぶんでつくるとか、

 季節ごとに衣替えをするとか、

 小さなことに手をかけて、

 日々の時間を慈しむ。

 

 そういう「ていねいな暮らし」が、

 日本ならではのラグジュアリーに

 なっているのかもしれません。

 

 もちろん時間やお金の余裕が必要だから、

 だれもがすぐできるわけではありません。

 

 けれども、ただ

 貴族のまねをするのではなく、

 日常をじぶんの手で整えることにこそ

 価値を見出すーそこに

 日本らしさがあるように思います。

 

 広い家や装飾を持たなくても、

 毎日の衣食住を大切にすることで、

 こころは満たされる。

 

 それは「もっと稼ぐ」競争から降りて、

「もっと豊かに暮らす」ことを選ぶような、

 そんな感覚なのかもしれません。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 ほんとうの贅沢は、

 きっと手間や時間をかけた

 "ふつうの暮らし"のなかにある。

壁に張り付くヤモリ

 

 ごく身近にいる人と、

 面と向かって話そうとするとき、

 対話を重ね、理解し合おうとすればするほど

 なぜか相手が遠く感じられたり、

 じぶんのなかに意地のようなものの存在が

 感じられることってありませんかね。

 

 家庭でも、学校でも、会社でも、

 パートナーとの関係においてもそうです。

 

 不思議なことに、少し距離を置くと、

 穏やかで思いやりある気持ちになれるのに、

 目の前に立つと平静さを欠き、

 余裕がなくなって、

 ことばに神経質になってしまう。

 

 遠くにいるときほど、

 こころがつながっているように感じるのに、

 近くにいると鎧や壁が無意識にできる。

 

 近しい人ほどむずかしいというのは、

 悪口などにおいても通じるものがあります。

 

 悪口も遠くにいる人より、

 近くにいる人のほうが言いやすい。

 宇宙人の悪口なんてだれも言いません。

 

 古代中国の『史記』には、

「遠交近攻(えんこうきんこう)」という

 ことばがあります。

 

 遠くと手を結び、近くは攻める。

 これは、国同士の戦略だけでなく、

 人間関係にもあてはまる気がします。

 

 近い遠いというのは、

 物理的な距離だけじゃありません。

 こころの距離もそうですよね。

 

 宇宙人の悪口を言わないのは、

 こころの距離があまりにも遠いからで、

 逆に、いつも気にしている相手や、

 どこか羨んでいる相手、

 欲望の向きが似ている相手ほど、

 悪口を言いたくなってしまう。

 

 だからこそ、誹謗中傷の相手が

 じつは学校の友だちや会社の同僚、

 趣味の仲間だったなんてことが、

 よくあるのだと思います。

 

 正反対に見えても、

 強く罵り合っている二人は、

 方向がちがうだけの"近い存在"。

 

 そんなふうに考えると、

 人間関係のもつれの本質も

 少し見えてくるかもしれない。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 なんだか憎たらしいと思う人がいたら、

 その人とじぶんの"近さ"がどこにあるのか、

 少し考えてみるとヒントがあるかも。

色鮮やかなサンゴ礁と熱帯魚

 

 ジェネレーションギャップを感じる瞬間。

 それはだれにでもあると思います。

 

 本やドラマ、SNSでバズっているもの。

 まわりが「おもしろい」と言っているのに、

 じぶんにはその良さが理解できない…。

 

 もし対象が若い世代なら、

「これがジェネレーションギャップか…」と、

 納得するのは割とかんたんだと思います。

 

 年齢のちがいとともに、

 感覚がズレるのは自然なことだからです。

 驚いたり、あきらめたりしながら、

 受けとめていけばいい。

 

 でも、ときどき厄介なのは、

 同世代やそれより年上の人たちが、

「これはおもしろい!」と言っているものが、

 どうしても理解できないときです。

 

 それは「年齢のせい」では片づけられず、

「もしかして感性が鈍ってきたのかも」なんて

 不安になってしまうこともあります。

 

 もちろん、好き嫌いはあって当然です。

 

 みんなが好きなものを、

 じぶんは好きじゃないことはあります。

 でも「ここが魅力的なんだろうなぁ」と

 他人の感じ方を想像できていたのに、

 最近はそれすら「むずかしい」と

 感じてしまうことがあります。

 

 でも、よく考えてみると、

 理解できないものを「バカ」のひとことで、

 片づけなくなったからかもしれません。

 

 安易に「バカ」ということばで、

 理解できないものを一蹴しなくなったゆえ、

「なぜおもしろいのか」と悩むようになった。

 

 人は考えることをやめたとき、

「バカ」という捨て台詞に逃げこみます。

 

「あんなのバカだよ…」

「バカのすることだね…」

 

 バカと言わなくなったとき、

 世界はもっと深く広くなるのだと思う。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 バカっていうほうがバカって、

 ほんとうに的を得たことばだと思います。