🎍正月の準備その後

 

遅くなりましたが、年末の続きになります→☘

 

年末の飾り付けをした後に、

夫の同級生の書家の方が、魯山人の座右の銘「坐 邊 師 友」を、素敵な色紙に

したため、送ってくださったので、早々に飾らせていただくことに。

 

封を開けた瞬間、ふわ〜っと典雅な芳香が・・。

 

ありがとうございます!

 

まだ床の間の鏡餅を飾っていない画像

 


☆魯山人の座右の銘 坐 邊 師 友(座辺師友 ざへんしゆう)

一流の教養人を目指すほどの者は、努めて古作の優れた雅品で身辺を満たすべきだ。「カケラでも傷物でも頓着することはない。良師益友を、古人から選ぶことは、最得策である」。

(こと)に、自然美を身につけるのには、山も川も別に金はかからぬ。山を眺め水を賞し、花を愛すれば良いのだから、それこそが「坐邊師友」という。・・だそうです

 

 

以前買い求めていた、イノシシのご夫婦。

十二年に一度のお付き合いなのに、うっかりしてしまい、ごめんなさいね〜。

 


大人気の高内秀剛氏の特大酒器↑で、日本酒をいただきました(画像を撮るのが遅くなり、白百合が咲き過ぎた画像に...)。


山田平安堂 : 屠蘇器    → ☘

掛      軸 : つ る           → ☘

掛      軸 : 秋  色             → ☘

先生の図録 巣ごもりの鶴   → ☘

 

 

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☆ 魯山人《青年よ 師を無数に 択えらべ》より

美術面において、現存者から師を仰ぐことは、なかなかむつかしい。

先輩はあっても、その人がなんらかに偏りし、かつその道の一つに囚われているからである。

これらの一人二人を師と仰ぎ、只管(しかん・ただひたすら)教えを乞うとせば、必ず後日、悔いを遺さねばならない。

(*たまたま1月に 京料理の「○ちよ只管しかん」で 魯山人の器を拝見いたしました)

 

例えば、画青年が梅原、安井を択ぶとせよ。また古径、靫彦に師事したとせよ。いずれを択んだとしても、真の自由は失われ、視野はせばまっていく。

いうところの、自由と自然なるものを見捨てねばならない羽目に陥る。これで悔いを遺さぬ者ありとせば、それは、もともとろくでもない、軽薄の徒輩である。

 

私はあえて、美術青年に警告してみたい。

君らが師と仰ぎ、師事せんとするならば、少なくともまず二百年、三百年の昔の美術に注目せよ。五百年、千年、二千年、否もっともっと先の年代になる幾多の作品に目を移して視よ。そして、その年代の人間は、天地を貫く自然の美妙を、いかに観たか。そしていかに道理にそむくことなく、素直に美しいものを造り遺していったかに注目せよ。

無理やりに生き続けている今時の先生などに眼をくれて、あれこれ重宝しようとか、金をかけるなどは、自分の生き方に、眼が覚めていないこととなる。

 

作陶に例をとってみるならば、無釉時代の技能と精神とに注目すべきである。

さらに五百年、千年、二千年、否もっともっと遡ったところに注意するがよい。注目すべき作家が芸の世界にも、彫刻、工芸の世界にも数々遺されている。

遠い昔の人間は、今の人間からみるとはるかに純情であったようだ。あたかも幼児のようにである。日出ずれば起きて働き、日没すれば安臥するという、いとも自然なる生活である。自然美に富んだ作品が生まれ出ずるのは、当然の帰趨(きすう・行き着くところ)である。

 

私は、この古い昔の人たちの遺した作品を、師と仰げというのである

なにを戸惑いして、今時の先生から芸美を学ばんとしているのか。束縛を受けながらも一人の先生に師事して学ぶ要のあったのは、過去のことである。

古美術が遺っている写真製版が、世界中の美術を観せてくれる。活字がありとあらゆることを教えてくれる世の中となっている。一人の師を仰ぐ要は、なくなっているのである。

(*昭和28年 魯山人は、このような姿勢を「座辺師友」と言ったそうです)

 

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