時の流れは川の流れと同じで、

自然は変わるのが常であると

いう。

季節も人も同じく移ろいゆく

かで「百人一首」の恋の歌が詠

まれる。

 

そのひとつが「百人一首」の

忘らるる…」の女性歌人の右近

の歌である。右近は醍醐天皇の

皇后穏子に仕えていた女房で、

恋多き女性であり、それだけに

恋心の複雑さを歌で詠む。

 

 

百人一首の右近の歌(38番)

 

右近の百人一首の歌(38番)

忘らるる身をば思はず

誓ひてし人の命の

惜しくもあるかな


「大和物語」にも書かれていたこ

の歌。「大和物語」によると、「

男の忘れじとよろづのこととをか

けて誓ひけれど、忘れにけるのち

にいひやりける」としても見える

が、「返しはえきかず」とあり、

相手からの返歌がなかったという。

 

「身をば思はず」の「身」はあな

たから忘れられる自分の身で、い

ずれは、捨てられる我が身のこと

なども考えもしないで、(神に)

誓ったけど、自分はすでにうけて

いるけど、(あなたは)自ら誓い、

破ったことで、神罰が下り、命が

短くなりはしないだろうか。

それを惜しく思います。

 

という意味になり、この歌は複雑

な女心を歌に詠んでいる。

只々男がこうむる神罰を心配して

おり、これまで一途に数々恋して

きた中で、今なお信じたいと思う

気持ちがどこかに残り、「ちかひ

てし」と掛けている。

 

女性歌人の右近

右近(生没年不詳)は、平安時代

中期の女流歌人で、父は右近衛少

将・藤原季縄(すえただ)。

右近は、醍醐天皇の中宮・藤原穏

子(父・関白藤原基経、母・人康

親王女)に仕えていた。

彼女は、内裏歌合に出詠、村上天

皇期の歌壇で活躍しており、恋多

き女性と名を馳せ、藤原敦忠、元

良親王、藤原朝忠、源順などと恋

愛関係にあった。

右近の百人一首の歌(38番)

 

忘らるる身をば思はず

誓ひてし人の命の

惜しくもあるかな

 

この「忘らるる」歌は、右近が藤

原時平の息子(三男)の藤原敦忠

におくった歌である。

 

藤原敦忠

 

 

藤原敦忠こと権中納言敦忠(養朴常信画・画帖)

 

藤原敦忠

藤原基経の長男で、菅原道真を左遷

させた藤原時平の息子が藤原敦忠。

権中納言敦忠百人一首の歌(43番)

 

逢ひ見ての後の心に

きらぶれば昔はものを

思はざりけり

 

 

権中納言敦忠百人一首の歌(43番)

 

「逢ひ見ての」は、はじめて情を

交わし契りをもった女性に、その

翌朝に贈った恋文、つまり「後朝

(きぬぎぬ)の歌」である。この

時代の慣わしで、男女が共寝した

翌朝、なるべくはやい内に彼女の

もとに贈るのが礼儀であった。

 

「逢ひ見ての」の「逢ふ」も「見

る」も深いあいだになることを意

味し、「後の心」とは、添い寝し

た後に相手を想う気持ちをいう。

「昔」とは、想いを遂げる前のこ

と。「ものを思はざりけり」の「

ものを思ふ」は恋の物想いのこと。

 

この歌の意味は。

逢う前の恋わずらいなんて、逢っ

て結ばれた後、あなたを想う気持

ちにくらべたら、とるにたらない、

ますます想いはつのるばかりだ。

と、いう想いを伝えている。

 

この歌は右近への返歌でなく、他

の女性に詠んだ権中納言敦忠の後

朝(きぬぎぬ)の歌

逢ひ見ての後の心に

きらぶれば昔はものを

思はざりけり

 

藤原敦忠は、天慶5(942)年先任

の源高明ら参議4名を越えて、従三

位・権中納言に叙任され翌年天慶6

年3月没、享年38歳。

この頃の歌を読むと、人は誰しも、

とめどなく、夢の中で契りの夢の

ような物語をみている心になるの

だろうか、どうもこれは、自分だ

けのことだろうか。

 

 

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