鳥羽殿(鳥羽離宮)は京都の桂川と

鴨川が合流する三角形の神秘的な地

に建つ。

鳥羽上皇のお后、平清盛の娘・得子

の「玉藻前」物語。

 

ー鳥羽上皇(鳥羽殿)と玉藻前ー

 

 

鳥羽殿(別名が城南宮、鳥羽離宮。京都市伏見区鳥羽離宮町7)

 

 

鳥羽離宮
平安京造営時につくられた鳥羽離宮は、

別名を鳥羽殿、城南宮と呼ばれる。

藤原氏は、この自分の土地を白河法皇

に献上される。のち白河・鳥羽法皇に

よって増設される。

 

平清盛(天皇の外戚)と

後白河法皇(幽閉)

清盛は義妹・建春門院が産んだ子の

高倉天皇が即位し、自分の娘・建礼

門院(徳子)を高倉天皇の中宮(妻)

にすることに成功し、天皇の外戚(

天皇の母方の親類)の地位を得る。

 

徳子が高倉天皇との子を誕生(治

承2年・1179年)。

清盛は、誕生1ヶ月後に皇太子にす

る。このとき後白河法皇が平氏封じ

込めのための動きを察知し、翌年治

承3年11月福原より軍勢を率いて入

京。平氏に反する公卿を追放、

 

後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政

を中止する。

治承4(1180)年。清盛の娘・建

礼門院の子・安徳天皇が即位する。

後白河法皇の子・以仁王(もちひ

とおう)が、源氏に平氏追討の(

りょうじ)を発する。

 

 

京都の平安京(鳥羽離宮・鳥羽殿

 

玉藻前と美福門院得子

(時代は遡る。1130年代から

保元の乱1156年)

「玉藻前」は、伝説の人物名でモデル

は美福門院得子。

得子の父は藤原長実(白河院近臣)、

母は源方子(白河上皇の乳母)。

徳子は鳥羽上皇の寵愛を受け、皇子・

親王を出産(のちの近衛天皇)。

親王の立太子とともに徳子は、女御

になり、正妃の璋子を煽ぐ権勢をも

つ。鳥羽上皇は得子を上皇として異

例だったといえる皇后に迎え入れる。

玉藻前と九尾の狐

鳥羽殿だったか、上皇は、床に伏し

ていた。

上皇は生後すぐ母を亡くなり、幼少

のときにに父を亡くし、天皇になり、

祖父の法皇に育てられ、幼い頃から病

弱だった。

上皇の簾の前で陰陽師が呪文を唱え

ていた。

そのときに上皇を介護していた后、

后の正体は…。

見破った陰陽師。なんと金毛白面九

尾の狐だった。

この狐の本性だ。最初は中国(殷朝)

、次いで天竺、そして中国(周)の

皇后になり、悪行をくりかえし、日

本に渡り、日本で保元の乱を起こし

たという。

 

 

「玉藻の前」の九尾狐(画・橘小夢)

 

鳥羽天皇と后

鳥羽天皇の母は生後に没し、祖父・白

河法皇のもとにひきとられる。

5歳のとき、父・堀川天皇が亡くなり、

天皇に即位する。

幼い頃から病弱で、政務はすべて白河

法皇がとる。白河法皇の養女・藤原璋

子が入内(永久5・1117年)し、翌

年に鳥羽天皇の中宮(妻)となった。

 

藤原得子(美福門院得子)と玉藻前

玉藻前のモデルの藤原得子。

美福門院得子(1117-1160)は、

自分の子を帝位(近衛天皇)につけ

るよう画策し、中宮待賢門院を失脚

させ、崇徳上皇や藤原忠実・頼長親

子と対立。鳥羽法皇の死後、保元の

乱を引き起こし、武士の世の中をつ

くるもとにしたと結びつける。

 

玉藻前は、保元の乱(1156年)の

約200年後、南北朝の戦いの頃につ

くられた伝説である。

その後1800年代初期(文化・文政)

に「玉藻前」が流行し、浄瑠璃をはじ

め多くの作品がつくられる。

 

 

橘小夢画の玉藻前

 

第74代鳥羽天皇の皇后・美福門院得子。

近衛天皇の生母で院号が美福門院。

平治の乱(1160年)後44歳で没。

得子は鳥羽院の所領の多くを相続、白

河法皇の墓陵、鳥羽法皇の墓陵は鳥羽

離宮(鳥羽殿、城南宮)付近にあり、

のち得子の娘の八条院がこれを引き継

ぐ。

美福門院得子の墓は、本人の望み通り

に異母弟・備後守時道により高野山葬

られる。

 

 

 

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