オランダのネーデルランド(低地地方)

にゆく。

ネーデルランド一帯には、星形の城塞

の都市があり、日本にも函館に五稜郭が

ある。

 

低地地方のナールデンとライデン

 

 

 

ナールデン

ナールデンは城塞の都市。

ネーデルランド一帯は、1555年以後

スペインの属領であった。

さらに進出した低地地方でプロテスタ

ントという疫病とり除くのに8万の大

軍を送り、残忍な宗教裁判と重税を持

って圧政に臨む。

これに低地人たちは抵抗、80年も続く

オランダ独立戦争(1568ー1648)と

なった。

このときに壊滅された都市がナールデ

ンだった。

1572年

スペインアルバ公軍隊は、市民を殺さ

ないからといい、ナールデンは城門を

ひらいた。

このためにひとり残らず殺される。

この“ナールデンの大虐殺”は低地地方

の人びとを震えあがらせた。このとき

に低地人の北部7州が共同し、スペイ

ンと戦うために1581年に「オランダ

連邦共和国」として独立する。

 

ライデン

星形の都市、ライデン市。

“ナールデンの大虐殺”の翌年1573年に

スペインに包囲されるが、降伏は皆殺し

を意味し、1年の飢餓籠城に耐え、ライ

デン市は命綱の水門を自ら破壊し、スペ

イン軍を水攻めにし、退却させる。

 

アムステルダム(ベイラントの商人)

アムステルダム市は“ナールデンの大

虐殺”のあとも、6年間スペイン側に

つき、1578年に独立運動の戦列に銃

をもち市民は加わわった。

このときベイラントという名の商人が、

敵のスペイン軍に武器を売り、見つか

り非難されると、「自由じゃないか」

とひらきなおる。

人間のひとつの典型といえるが、16、

7世紀は、セルバンテス(1547-16

16)がドン・キホーテを生み、シェ

イクスピア(1564-1616)がハム

レットを生み、オランダの独立戦争で

ベイラントを生んだ。

資本主義

は、経済活動のなかで、人類に自由と

個人という二つの贈り物をしたが、こ

の際限なき活動に、歯止めとして自律

性と倫理性をプロテスタントティズム

は、説き続ける。

アムステルダムが大飛躍する契機は1

585年、この年にヨーロッパ第一のア

ントワープ(いまのベルギー)をスペ

インが占領する。

このため逃げた人々と同時に大資本が

小さな漁村アムステルダムに移り、繁

栄の奇蹟が起こる。

オランダは独立後、スペインが去り、

町は再建され、オランダの黄金時代が

17、18世紀に訪れる。

 

ナールデンと五稜郭

星形の都市のナールデン市。

低地地方のライデン、ヘルフットス

ライスなども星形の都市だが、函館

の五稜郭は最もナールデンに似てい

る。

“ナールデンの大虐殺”から100年後

1685年、10年の歳月をかけ再建さ

れたナールデン市。

17世紀のオランダは商人国家とはい

え、貿易国家であればこそ、大海軍

を所有していた。

17世紀の小銃と刀槍中心の時代、オ

ランダは火砲の需要が高く、商船に

大砲を乗せばならず、商港に大砲を

備え、難航不落の陵郭であった。

六陵の星形につくられた先端の部分

の武装は、熊の四股の爪のように鋭

く、六陵のうちのひとつが博物館に

なっている。

 

 

オランダの六陵形の都市(ナールデン)

 

 

「五稜郭」(武田斐三郎)と函館戦争

幕末に武田斐三郎が設計した五稜郭。

 

 

武田斐三郎設計の函館の五稜郭

 

武田斐三郎(1827-1880)は伊予

大洲(現愛媛県大洲市)大洲藩士武

田敬忠の次男。

22歳のとき適塾(塾頭)でオランダ

語と医学を学び、2年後に洪庵の紹

介で伊藤玄朴や佐久間象山に兵学、

砲学を学ぶ。ぺりー来航のとき、象

山に連れられて、吉田松陰らととも

に浦賀にゆき、黒船を見て、「三浦

見聞記」を著す。

この頃に五稜郭を設計する。

適塾(塾頭)を出たあと、幕府に仕

官し函館奉行支配となり箱館台場を

築城する。

のち番書調所教授、五稜郭砲台を完

成させた功により旗本となる。

元治元(1864)年、幕命によって

江戸川関口の鋳造所で鉄砲を製造す

る。その出来ぐあいは、幕府顧問の

フランス士官を驚かせる。

この10年前に設計された五稜郭は、

武田は実際に見たこともなく、あく

まで書物で見たものであった。

箱館の五稜郭は安政4(1857)年

の段階では、攻撃する側の火砲の方

が発達していた。

明治元(1868)10月20日榎本軍は、

蝦夷地の鷲の木浜に入港し、五稜郭

を占拠するが、この種の城塞では砲

撃を防ぎようがなかった。

げんに明治2(1869)年5月12日新

政府軍の軍艦「甲鉄艦」が発射する

砲弾は郭内によくとどき籠城側の戦

意をくじき、明治2(1869)年5月

18日の五稜郭開城・降伏につながる。

 

 

 

 

 

武田斐三郎は、戊辰戦争では関与

しない立場を貫き、伝習館隊長斎

藤速水など22名に襲われるが難を

避け、幕府に御役御免願いを出す。

のち名をかえ松代藩邸に匿われる。

明治維新後新政府に出仕し、スト

ーブの発明者でもあり、科学技術

方面の指導者として活躍、また日

本軍兵制面で、フランス軍事顧問

団と折衝し、明治8(1875)年

に陸軍士官学校を開校させる。

 

 

 

2021.9.13

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