ヨーロッパの旅から帰国した高松凌雲。

医師凌雲は江戸の実兄の古屋左久左衛

門の英学塾にゆく。

 

高松凌雲

高松凌雲(1836-1916)は医家で久留米

藩士。

幕府医官石川桜所に医術を、緒方洪庵に蘭

書を学ぶ。のち幕府の奥医師となり、慶応

(1867)年徳川昭武に従って欧州諸国を

巡歴。

このとき、海外視察での見聞を活かし、随

行員の一員であった渋沢栄一とともに医療

機関、福祉事業の発展に貢献する。

 

 

マルセイユでの使節一行(2列目の左端が渋沢栄一・3人目高松凌雲)

 

高松凌雲と兄・古屋左久左衛門

フランスに留学していた凌雲ら帰国

組15名は、民部公子と渋沢篤太夫を

残し、慶応3(1866)年3月マルセ

イユからフランス船に乗り込み、5月

17日に横浜に到着。

 

慶喜は水戸で謹慎中、田安家にゆき、

帰着の報告をする。

水戸にゆく前に、兄の古屋左久左衛門

(旧名高松勝次)が住む下谷竹町の英

学塾を訪ねる。

 

上野の山は、彰義隊の戦い(5月15日)

があり、まだ煙がくすぶり、下谷一帯

は戦闘のあとがなまなましく、硝煙の

匂いが漂っていた。

 

 

 

 

 

古屋左久左衛門「衝鋒隊」

英学塾を開いていた凌雲の兄・古屋(ふる

や)は、英学を学び外国兵書を翻訳し、神

奈川奉行所に勤務する。

 

慶応4年正月鳥羽・伏見で敗れたあと幕軍

の多くは江戸へ敗走し、兵舎に約1500人

の寄せ集めの衆が収容され、外出、食事制

限、俸給なく、2月初め不満爆発し脱走。

 

2月中旬、古屋は野州(下野)で脱走兵と

折衝し、約370名を武州忍藩に預け、江戸

の幕府陸軍局に報告する。

 

3月1日古屋らは幕府より歩兵第6連隊の6

00名、砲三門をあたえられ、忍浦に預けた

脱走兵と合流し北上、

3月22日会津城に入城。古屋は城内で藩主

松平容保、喜徳親子に拝褐。

 

25日信州中野へ向かう。このときに隊名を

「衝鋒隊」とする。

総督古屋左久左衛門、頭並隊長今井信郎、

隊長内田庄司参謀楠山兼三郎。フランス訓

練を受けた旧幕歩兵と帰順部隊、脱藩者な

ど850名。その後奥州各藩は恭順に傾き、

会津落城後の10月13日、古屋は松島港か

ら榎本武揚の艦隊に乗る。

 

高松凌雲

高松凌雲は帰国後、兄の古屋左久左衛門

の英学舎の跡に弟六郎と暮らしていた。

ある日凌雲は、榎本亮三の水戸藩邸に近

い屋敷にゆく。

旧幕府の目付で官位を奪われた榎本亮三

に書生の関広右衛門と中野梧一を紹介さ

れ以後3人は意気投合し、新政府軍と闘

おうと策を練る。

兄が榎本艦隊に乗ったとき、フランス留

学から帰国した凌雲は榎本艦隊に乗って

いた。

 

榎本武揚と函館戦争

榎本釜次郎こと榎本武揚(たけあき)

は、勘定役榎本円兵衛の次男。

安政2(1862)年長崎海軍伝習所に

学び、文久(1862)年赤松則良(1

841ー1920)とともにオランダに留

学。

慶応3(1867)年開陽丸に乗り組み

帰国。軍艦奉行に累進。戊辰戦争で

幕府艦隊を率いて北海道に走り、五

稜郭に拠って官軍と戦う。

 

高松凌雲と古屋左久左衛門

明治2(1869)年5月12日新政府は、

函館奪回の総攻撃をし、古屋は砲弾を

受け負傷し、五稜郭降伏寸前に明治2

(1869)5月16日死去する。享年37歳。

 

高松凌雲は榎本武揚らと北海道に走り、

函館病院頭取となり、傷病兵を治療する。

兵乱後徳島藩に預けられ、明治3(1870)

年に許され、鶯渓病院を興し院長となる。

明治12(1879)年同愛社を起こし、窮

民を救護する。

 

つづく高松凌雲「函館戦争」

 

 

2021.9.13

青天ゆく(「ヨーロッパの旅」)ー渋沢栄一と高松凌雲ー