ヨーローッパの旅を終えた渋沢栄一。

一足先に日本に帰っていた高松凌雲。

高松凌雲は、兄ととともに幕臣として箱館戦争に

参加していた。

 

(渋沢栄一と高松凌雲)

渋沢栄一(1840-1931)は、現在大河ドラマ「青天を

衝け」で、故郷から徳川260年余の最後の将軍となっ

た徳川慶喜(1837-1913)の駿府にに会いにゆく。

一方、高松凌雲(1836-1916)は幕臣として兄ととも

に箱館戦争に参戦中で敵、味方の区別なく治療にあ

たっていた。

高松凌雲は緒方洪庵の適塾出身者。

適塾は大阪大学医学部の源流で、幕末から明治維新

にかけて活躍した福沢諭吉、大村益次郎などを多く輩

出する。高松凌雲もそのひとりで、この頃、蘭学から英

学に移る時期で、幕府に招聘されたオランダの医師

ボードウインが帰国の途についている。

<高松凌雲「適塾」>

凌雲は、天保7(1836)年12月25日、築後国御原郡古飯

村(現福岡県小郡市)の庄屋高松与吉の三男として誕生。

3歳上の兄は医師を志した勝次は養子となり、のちの古屋

佐久左衛門。安政6(1859)年4月凌雲は、24歳で脱藩し、

兄(旧名勝次)を頼り、江戸にゆき、蘭方医の石川桜所の

門下に入り、オランダ医学を学ぶ。その後大坂に出て全国

から俊才が集まっていた適塾に入塾。このとき西洋医学の

知識のみならず、オランダ語、自由に使うまでになる。さら

に幕府が開いた英学所で学び、英学もマスターする。

 

 

緒方洪庵の適塾(大阪市中央区北浜3丁目)

 

<徳川慶喜と高松凌雲(「奥詰医師」)>

慶応元(1867)年、凌雲の学才を知った一橋家は、凌雲を

専属医師とする。同じときに一橋家出身の慶喜が15代将

軍となり、凌雲は、幕府から奥詰医師として登用されること

になる。

<高松凌雲(「ヨーロッパの旅・フランス留学」)>

慶応3(1867)年日本はパリ万国博覧会(同年4月より)に

参加する。幕府は倒幕運動で混迷するなか、幕府の主権

を固める意図をもち、慶喜は弟の昭武を代表に日本代表

団を派遣する。このとき凌雲は、西洋医学の知識と語学力

が評価され、代表団の随行員に選ばれ、大阪から京都の

若州屋敷の慶喜と面談する。慶応3(1866)年5月パリ博会

場にゆくと幕府の隣に薩摩藩が琉球国の展示場がある。

現地で幕府は薩摩藩に抗議し、薩摩藩は琉球国の文字を

とり幕府と調印を取り交わすが、結果薩摩藩は約束を無視

した。栄一凌雲らはこれに怒る。

 

 

パリ万国博覧会(慶応3年4月1日)のポスター

 

パリ万博後。

慶応3(1867)年8月各国巡遊の昭武一行が汽車でパリを

出発(8月6日)。御供は以下の者。向山隼人正、山高石

見守、保科俊太郎、高松凌雲、田辺太一、箕作貞一郎、

山内文次郎、渋沢篤太夫、菊池平八郎、井坂泉太郎、

加治権三郎、三輪瑞蔵。シーボルト、ほかに小者5人。

スイスの首都ベルンに着く(8月7日)

オランダに向かい(8月16日)、26日まで10日間滞在。

首都ハーグで国王に謁見し、国会開催の式典に招かれ

る。ライデン市では、蒸気機関で地下水を汲み上げるポ

ンプを見る。ここは、通弁官シーボルトの亡き父が日本

の書画を集めていたが、彼の別荘があった。オランダは

1800年代に入り初代ナポレオンに侵略されたのち、衰退

の一途をたどり、日本国長崎のみは貿易を許し、オラン

ダはそれを徳とした。ロッテルダム市に着くと、日本人留学

生林研海、伊藤玄朴、赤松大三郎(赤松則良)、杉本鉄太

郎、緒方洪哉(緒方惟準)らが出迎える。栄一は「オランダ

は特に見るべきものがなかったが、日本と縁の深い歴史が

あるので、懐かしい思いを味わう。」と、記す。

 

 

オランダについでベルギーを訪問(8月27日)、

9月12日一行はベルギーを離れパリに帰着。

凌雲は幕府より留学生としてパリに残るように言い渡される。

慶応4(1867)年1月1日凌雲たちは、昭武に年始の挨拶し一

同シャンパンで新年を祝う。夜、館内の一室に集まる指示が

あり、送られてき御用状を一同が回読する。そこには、去る

慶応3年10月14日将軍慶喜が政権を朝廷に返還したことが

記されていた。館内は静まり返る。4日後慶応4(1867)年1月

5日凌雲と木村宗三は、山高石見守の部屋に呼ばれる。部屋

にいた渋沢篤太夫もいて、随員の任を解かれ、桐箱から取り

出した渋沢からの200フラン受け取る。ふたりは、凱旋門に近

いソバール家の一室を借りて住むことになる砲術修行の目的

をもつ木村はカションの紹介で兵器廠に通う。凌雲はオテル・

デュウ(神の家)に入学。病院を兼ねた医学校であった。また

病院に併設された貧民病院は、無料で設備や医師はじめ看護

婦など一般の病院と同じで国からの援助を受けない民間病院

で、富豪、貴族、政治家などの寄付によって成り立っていた。

同年慶応4(1867)年3月中旬夕刻連絡に入り、館に一同集合。

御用状の指示に従い、昭武がパリに留まることになる。4月幕

府から御用所が届き、慶喜は恭順の態度を示し、前将軍夫静

寛院宮(和宮)が助命嘆願するという話がある、と記される。

凌雲は幕府の再起は絶望と思う。出発前夜、昭武を中心に帰

国者と残留者が宴が館のホールで催される。翌日、凌雲たち

は栗本にしたがいパリの停車場にゆく。駅には山高、保科、

渋沢らが慶応4年4月24日見送りにきていた。高松凌雲の留学

生活も1年余で閉じる。凌雲が江戸湾に到着したとき、すでに

幕府は崩壊、江戸城は薩長に明け渡され、主君であう慶喜は

水戸で謹慎中だった。凌雲は、徳川幕府、慶喜の恩義に従い、

蝦夷地に幕臣の国をつくろうとした榎本武揚らに合流、函館戦

争に医師として参加する。

 

 

 

(高松凌雲)

高松凌雲はパリで外科手術を実習し、帰国後、

幕府に殉じて函館政府に参加し、函館病院頭取

になり、8ヶ月のあいだに、敵味方なく1300人とい

う傷病兵の治療にあたる。のちに西南戦争の博愛

社の精神につながり、同愛社を創設する。(明治12年)

東京周辺に60箇所の慈善施設をひらく。