世界の国々はコロナ禍なか米中覇権

争いで模索中で、時代は変わろうと

している。

かつて日本も幕末から維新のときも

そうで、人びとはこれからの先を考

えたが、彼もそうだった。

彼の名は福沢諭吉。

 

福沢諭吉と適塾・緒方洪庵

福沢諭吉(1834-1901)は、豊前

中津藩(大分県)の下級武士・福沢

百助の次男で大坂堂島の蔵屋敷にて

誕生。(天保5年・1834年)

 

 

福沢諭吉誕生地中津藩蔵屋敷跡(大阪市福島区福島1丁目)

 

安政元(1854)年幕府はアメリカに

ついでイギリスと和親条約を結び下田、

長崎が開港。

諭吉は、兄・三之助が長崎に出仕する

とき同行し長崎で蘭学を学ぶ。

安政2(1865)年大阪に戻った諭吉

は適塾に入門。

中津藩屋敷より適塾に通い、のち塾舎

を居とする。

安政4年に適塾の塾頭に選ばれた諭吉。

新入生は、洪庵に入塾料をおさめ、

頭にも金二朱をさしだし、適塾の学習

は、塾頭、塾監(副塾頭)に任せられ

る。

塾頭になった諭吉は洪庵の講義を受け

るが、「なんだかわれわれは無学無識

になったようだ」と洪庵の卓説ぶり

晩年になっても語り、洪庵への畏敬の

念を欠かすことがなかった。

洪庵は福岡藩大坂屋敷のご出入医とし

福岡藩主黒田長博を診察し、西洋

情を話していた。竹谷椋亭自伝「南

柯一夢」・安政4年3月)

 

 

緒方洪庵の適塾(大阪市中央区北浜3丁目)

 

福沢諭吉と英学

安政5(1858)年10月。

日米修好通商条約締結後に藩命で江

戸に出府した諭吉は、江戸の築地鉄

砲州(現東京都中央区)の中津藩・

奥平家屋敷で「蘭学塾」(福沢塾と

も呼び正式な名称がなかった)を

これが慶応義塾の起源となる。

諭吉は横浜を訪ねたとき、店の看板

の文字がわからず、外国人には言葉

は通じず、すべて英語だった。

「蘭学の窓は小さい、英学の窓は大

い」と英語の必要性を痛感し、

たに独学で英学を学び始めることに

なる。

福沢諭吉と咸臨丸

安政7(1859)年1月9日。

幕府は日米修好通商条約の批准書

交換を目的とする使節団をアメリカ

派遣。

このとき諭吉は幕府の侍医・桂川甫

周を通じ、咸臨丸最高責任者の木村

摂津守の従者として随行できる。

 

外国奉行の新見正興を団長とする一

行77人はアメリカ軍艦に乗り、その

護衛艦咸臨丸に諭吉は木村喜毅、勝海

舟、ジョン万次郎ら乗船(11人)し横

浜港を1月9日に立ち、38日の航海を

経てサンフランシスに上陸(2月26日)。

サンフランシスコはゴールドラッシュ

によって発展し、捕鯨船の基地として

賑わう。

諭吉は

豊富な物資、先進技術に驚く。また一

般家庭に訪れた諭吉は、日本では考え

られない光景を目にする。

奥方が客と談笑、亭主が食事を用意し

もてなす。

男尊女卑、世襲制度の日本で育った

諭吉は、アメリ

カの日常に根付く自由と平等に感動

する。これを下に「天は人の上に人

をつくらず…」にはじまる「学問

のすすめ」を著書にする。

これが、明治のベストセラーとなる。

咸臨丸はハワイを経由して万延(1

860)年旧暦9月27日帰国する。

諭吉は外国奉行の翻訳方に雇われ、

「蘭学塾」を鉄砲州から新銭座(現東

都港区)に転居する。

 

福沢諭吉「遣欧使節団」

文久2(1862)年幕府は急激な攘夷

論を危惧し、安政5(1858)年に締

した修好通商条約の5年間延長を

要求するために遣欧使節団の派遣を

決定。

諭吉は翻訳方として随行する。訪問

先は3か国、フランス、イギリス、

オランダ。1月23日長崎を出航4月3

日にマルセイユに上陸し4月7日パリ

に到着。5月5日ロンドンに到着(約

1ヶ月滞在)、6月14日海路からロッ

テルダムに上陸、オランダで蘭学を

学んだ諭吉は「第二の故郷に帰った

ような」と語る。

福沢諭吉と大村益次郎

文久3(1863)年6月緒方洪庵が亡

くなる。以下「福翁自伝」による。

その通夜の席で諭吉は村田蔵六(

のち大村益次郎)にいう。

福沢 

「ドウダエ馬関では大変なことをやっ

たじゃないか。何をするのか気違い共

が、あきれ返った話じゃないか」

村田 

「何だと、やったらどうだ」

福沢 

「どうだって、この世の中に攘夷なん

て丸で気違いの沙汰じゃないか」

村田 

「長州はちゃんと国是がきまってあ

る。あんなやつらに我がままをされ

て堪るものか。モウ防長の土民は悉

く死に尽くしても許しはせぬ。」

諭吉は大村に攘夷を狂気の沙汰と批

判する。

 

「彰義隊の戦い」と慶応義塾

江戸開城後、慶應4(1868)年

5月15日

静寛院宮ならびに天璋院の使者2人

が、寛永寺はいり彰義隊を説得す

るが応じず、大村益次郎が指揮する

新政府軍が雨中総攻撃を始める。

大砲が響く同時刻、福沢諭吉は、建

てたばかりの慶應義塾で、英書で、

経済の講釈をしていた。

福翁自伝による、

上野ではどんどん鉄砲を撃っている。

上野と新銭座とは二里も離れていて、

鉄砲玉の飛んで来る気遣いはないとい

うので、ちょうど、あのとき私は英語

の経済の講釈をしていた。』と。

 

慶應義塾は、騒乱のなかでも、西洋の

ことを知りたい気は流行する。

上野の騒動がすむと奥州の戦争となる

が、その最中にも生徒は続々入学し、

塾はますます盛んになったという。

彰義隊の戦いのとき、諭吉は新銭座(

東京都港区浜松町1丁目)におり、これ

まで「蘭学所」と呼んでいた塾を、時

の年号をとり、「慶應義塾」とし、5月

15日を創立記念日とする。

義塾の「義」は公を意味し、英国のパブ

リック・スクールを理想とし、慶應義塾

は新たな時代が求める人材を輩出する。

 

 

慶応義塾大坂分校

明治6年(1873.10)、諭吉は

大阪に慶応義塾分校を置き、

西方面で東京にゆくのが困難な

者のために開塾する。

 

 

 

慶応義塾大阪分校は「丸善」の創設

者、早矢仕有的(はやし ゆうてき)

の協力で、北浜の適塾の近くの地

開設。諭吉は大阪の慶応義塾分

校に次いで、京都で開塾(明治7年)。

慶応義塾大阪分校は明治8年に

に移される。

福沢諭吉は明治維新まで、三度海外

に出て、「西洋事情」で外国の様子

を日本に紹介する。

 

 

福沢諭吉と慶応義塾>

天保5(1834)年  12月12日諭吉誕生

天保9(1839)年  緒方洪庵、適塾開く(29歳)。

嘉永6(1853)年  ペリー艦隊浦賀上陸(6月)

安政2(1855)年   3月諭吉(22歳)適塾入門(姓名録328番目)            

安政4(1857)年   諭吉、適塾塾頭

安政5(1858)年   日米修好通商条約結ぶ。(鎖国終わる)            

            諭吉、江戸(築地鉄砲州)で蘭学塾開設

            (慶応義塾大学の起源)          

万延元(1860)年  1月18日幕府初の遣米使節が条約批准書

            交換のために米軍艦、咸臨丸が品川を出航。

            諭吉随行し咸臨丸に乗船。

文久2(1862)年   幕府遣欧使節団に翻訳方として随行(仏・英・蘭)

             (1月23日ー12月11日)

文久3(1863)年    6月10日緒方洪庵江戸で永眠。

慶応4(1868)年   5月15日東征軍、彰義隊を総攻撃。(「彰義隊の戦い」)

             同日5月15日慶応義塾創立記念日

明治34(1901)年  2月福沢諭吉卒

 

 

 

2021.9.13

青天ゆく(「ヨーロッパの旅」)ー渋沢栄一と高松凌雲ー

2021.9.14

高松凌雲と古屋左久左衛門(衝鋒隊)

2021.9.15

高松凌雲と榎本武揚(函館戦争)

2021.9.16

高松凌雲と函館戦争(五稜郭)

2021.9.17

高松凌雲とボードウイン(東京「上野」)

2021.9.18

大村益次郎とボードウイン(「日本とオランダ」)